朝日山藩/水野家5万石:水野忠弘 奥羽越列藩同盟で敗れた山形藩が移封されて立藩した朝日山藩

朝日山藩 水野家5万石 最後の藩主 水野忠弘
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朝日山藩の歩み

朝日山藩は現在の滋賀県長浜市に存在した藩です。明治三年七月十七日(1870年8月13日)から明治四年七月十四日(1871年8月29日)の「廃藩置県」までの約1年間存在しました。奥羽越列藩同盟に与して新政府軍に敗れた山形藩主「水野忠弘」が同じ五万石をもってここに移封されました。

朝日山藩は明治四年(1871年)の「廃藩置県」で朝日山県となります。そして長浜県・犬上県を経て滋賀県に編入されました。水野家は明治二年(1869年)の「版籍奉還」後、華族に列し明治十七年(1884年)に子爵を授爵しました。

この藩は江戸前期ではなく、明治三年に生まれています

朝日山藩は少し特殊です。江戸前期に消えた藩ではなく、戊辰戦争の処分として明治三年(1870年)に新しく作られた藩でした。場所は近江国浅井郡朝日村山本、いまの滋賀県長浜市湖北町山本です。

藩主の水野忠弘は、天保の改革を行った老中・水野忠邦の孫にあたります。慶応二年に山形藩最後の藩主となりました。

ところが慶応四年、忠弘は父とともに京都にいました。そのあいだに、国元の山形藩が奥羽越列藩同盟に加わってしまいます。五月に父を山形へ戻して新政府側につかせたいと願い出ましたが許されず、九月に山形藩は降伏。十二月には父子ともに謹慎となり、翌明治二年五月に家老の水野元宣が処刑されました。

謹慎が解かれたのが明治二年、そして明治三年七月、近江国浅井郡五万石へ転封となります。藩庁ははじめ五村別院に置かれ、明治四年二月七日に朝日山の陣屋が開庁しました。

ところが同じ年の七月十四日、廃藩置県で朝日山県となり、十一月には長浜県に合併されます。陣屋が機能したのは五か月ほどでした。

忠弘には藩士を帰農させるため年三千両の支出が認められました。廃藩後は慶應義塾に入り、明治十七年に子爵となっています。

本人は京都で新政府側につこうとしていたのに、国元が勝手に同盟に入ったせいで責任を取らされ、山形から近江へ五万石ごと引っ越したことになります。陣屋の跡はいまの長浜市立朝日小学校で、遺構は残っていません。

唐津・浜松・山形・近江—国替えを重ねた水野家

朝日山藩の水野家は、江戸時代の後半に何度も領地を移った家でした。もとは肥前唐津藩の藩主でしたが、文化十四年(1817)、水野忠邦が幕府の要職に就くため、実入りの多い唐津から遠江の浜松へ自分から国替えを願い出ます。老中となった忠邦は天保の改革を進めますが、失脚したのち、弘化二年(1845)に息子の代で出羽の山形へ移されました。浜松六万石から山形五万石への移封は、事実上の処罰でした。

その山形で迎えたのが戊辰戦争です。忠弘父子が京都にいるあいだに、国元は奥羽越列藩同盟に加わり、戦後その責任を問われました。藩の責任を一身に負ったのは家老の水野三郎右衛門(元宣)で、明治二年(1869)に山形で処刑されています。藩主父子が京都にいたため、国元で同盟入りを決めた側が責めを負う形になりました。

こうして水野家は、唐津から浜松、山形と移り、最後に近江の朝日山へ移されて、そこで廃藩置県を迎えます。天保の改革の老中の家は、幕末から明治にかけて、二度にわたって政争と戦争の後始末で領地を動かされたことになります。

同じころの日本—東京への天皇の移り

東京奠都 朝日山藩が置かれる前年、明治二年(1869)の三月、明治天皇はふたたび東京へ移り、そのまま東京にとどまりました。前年の秋に一度東京に行幸したのち京都に戻っていた天皇が、正式な遷都の布告のないまま、東京を新しい都としたのです。これを「東京奠都」と呼びます。

新しい国のかたち 同じ年の六月には版籍奉還が行われ、藩主はそのまま藩知事となりました。朝日山藩の水野家のように、戊辰戦争の処分で領地を移された藩も、新しい政府のもとで藩としての最後の数年を過ごすことになります。

家康のいとこの家—水野忠元系の十三代と豊烈神社の打毬

於大の方の実家・水野家

朝日山藩の水野家は、家康の母・於大の方の兄弟、水野忠守の子・忠元に始まる家です。忠元は家康のいとこにあたります。家は下総山川、駿河田中、三河吉田、岡崎、肥前唐津、遠江浜松、出羽山形と移り、最後に近江朝日山へたどり着きました。水野家の墓所は下総山川(茨城県結城市)の万松寺にあり、天保の改革を行った水野忠邦の墓も結城市山川にあります。家格は譜代です。

老中首座の父と、伊達宗城の娘

最後の藩主・忠弘の父・水野忠精は、幕末に老中首座を二度務めた人で、その公用日記は幕末政治の大事な史料とされています。忠弘の継室は宇和島藩主・伊達宗城の娘でした。伊達宗城は、浅尾藩蒔田家の養子・広城の実父でもあります。

山形に残る豊烈神社と打毬

山形市の豊烈神社は、藩祖・忠元と忠邦をまつる神社です。浜松で始まった祭りが山形への国替えとともに移り、明治に旧藩士が今の社殿を建てました。例大祭では「古式打毬」が奉納されます。馬に乗って毬を打つ古い競技で、日本に残るのは三か所だけといわれます。山形を離れた殿様の家の祭りを、旧藩士たちが守り続けたのです。

琵琶湖のほとりの最後の領地

朝日山藩の最初の藩庁は五村別院(重要文化財)に置かれ、のちに山本(いまの長浜市湖北町)に陣屋が移されました。家康のいとこに始まる家が、全国を転々としたすえ、最後に琵琶湖の北の小さな村にたどり着く。その一方で、旧領の山形には祭りが残った。家と土地の結びつきの不思議さを感じます。

朝日山藩をもっと詳しく

国元を預かった家老・水野元宣

藩主父子が京都にとどまっていたあいだ、山形藩を動かしたのは首席家老の水野三郎右衛門元宣でした。天保14年(1843年)に浜松で生まれ、弘化3年(1846年)に藩の移封とともに山形へ移った人で、戊辰戦争の年にはまだ20代半ばでした。

元宣ははじめ、奥羽鎮撫総督の命令で庄内藩攻めに加わりました。しかし庄内藩とはひそかに通じて戦う意思のないことを伝えており、兵力でまさる庄内勢に押されると早めに兵を引いて、庄内軍が山形の町へ進むのを防いだとされます。庄内藩が新政府方の天童を焼いたのも、この春のことです(天童の戦い)。その後、新政府軍の参謀・世良修蔵が殺されると、元宣は自分の責任で奥羽越列藩同盟に署名しました。装備の差から不利を承知のうえでの判断でしたが、結果として山形の町が戦場になることはありませんでした。

仙台・米沢の両藩が降伏すると、元宣は降伏の手続きに奔走し、自ら首謀者として名乗り出ます。明治2年(1869年)5月20日、山形の長源寺で処刑されました。切腹を望んだものの、最後は処刑を受け入れたと伝わります。生年から数えると満25歳でした。明治35年(1902年)9月には豊烈神社の境内に陣笠姿の銅像が建てられ、老朽化したのちの令和4年(2022年)、寄付を募って建て直されています。像は境内に入ってすぐ右手に立っており、毎年10月6日の例大祭では古式打毬が奉納されます。降伏した庄内藩のその後については庄内藩の降伏とその後で紹介しています。

藩庁が決まるまで

朝日山への転封が決まったのは明治3年(1870年)7月17日です。藩庁は10月5日からひとまず五村別院に置かれ、12月17日に朝日山の地に設けることが決まりました。陣屋が開いたのは翌明治4年(1871年)2月7日、廃藩置県で朝日山県となったのが7月14日、長浜県に合わされたのが11月22日です。転封の決定から県の消滅まで、わずか1年4か月でした。

最後の藩主のその後

水野忠弘は安政3年(1856年)に生まれ、慶応2年(1866年)、父・忠精の隠居により10歳で家督を継ぎました。朝日山藩主となったのは14歳のときです。明治37年(1904年)7月10日には貴族院の子爵議員に選ばれましたが、翌明治38年(1905年)12月7日に49歳で亡くなりました。墓所は東京都世田谷区北烏山の妙高寺です。男子がいなかったため、家は弟の水野忠美が継いでいます。正室は水野忠制の娘(水野忠幹の養女)で、伊達宗城の娘は後添えにあたります。

5万石の軍役

慶安2年(1649年)の軍役規定とされるものは、1万石あたり235人を基準としていました。5万石の朝日山藩にあてはめると、十人単位でおよそ1,180人です。この規定は案のまま発布されなかったとする説もあり、あくまで目安です。朝日山藩は幕府の軍役が意味を失ったあとの明治の藩ですが、山形時代の5万石という規模をそのまま近江へ持ちこんだ藩だったことがわかります。旧領の山形の城については山形城の現地取材記事で紹介しています。

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