田丸藩の歩み
田丸藩は伊勢国に存在した藩で藩庁は田丸城にありました。遠江久野城城主であった「久野宗成」は駿府藩主であった「徳川頼宣」に付属させられ、頼宣の紀州転封に際し紀州へ移ってきました。頼宣は宗成に一万石を与え田丸城主として田丸領六万石を領させました。久野氏は、紀州藩家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせました。久野氏はその後八代続き、幕末の藩主「久野純固」の時に明治維新に至ります。

明治維新に伴い田丸城の建造物はほとんど取り壊されたが、天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などの遺構は今も整備されて残されており、移築されていた富士見門、三の丸の奥書院なども元の位置に再度移築され面影を偲ばせています。
紀州徳川家の付家老・田丸藩
田丸藩は、伊勢国度会郡(現在の三重県玉城町)に置かれた一万石の藩で、田丸城を拠点とし、藩主の久野家は紀州徳川家の付家老を務めた家柄でした。御三家・紀州藩を支える重臣として、伊勢の要地を預かる特別な立場にありました。
無事に乗り切った幕末
幕末維新の動乱のなかで、田丸藩は大きな戦火に巻き込まれることなく、時代の転換を無事に乗り切りました。御三家に連なる家柄でありながら、混乱の時代を穏当に乗り越えたその歩みは、付家老という独特の立場にあった藩の一つのあり方を示しています。
「田丸藩」と呼ぶべきか—久野家の立場をめぐって
田丸城と久野家を紹介するとき、多くの資料が「田丸藩」という言い方を使います。ただし、この呼び名は少し注意して扱う必要があります。久野家一万石は、あくまで紀州藩の家老の家であり、将軍から直に領地を認められた大名ではなかったからです。
附家老と呼ばれる家との違い
御三家に付けられた重臣のうち、幕末に大名として独立した家として挙げられるのは、尾張家の犬山成瀬家・今尾竹腰家、紀州家の田辺安藤家・新宮水野家、水戸家の松岡中山家の五家です。これらは慶応4年(1868年)1月に独立を認められ、当主は華族に列しました。久野家はこの五家に数えられていません。
久野家についても、慶応4年(1868年)8月に独立を願い出たとする記述があります。ただし、この願いは認められず、のちの華族にも列していないと伝えられます(この経緯を記すのは今のところ百科事典の記述で、自治体の公式な説明では確認できていません)。つまり田丸の久野家は、藩の体裁を備えながら、最後まで紀州藩の家臣という立場のままで明治を迎えた家でした。「田丸藩」という言葉は、あくまで便宜的な呼び方として読んでおくのが正確です。
幕末の当主・久野純固
幕末の当主は久野純固です。文化12年(1815年)に生まれ、明治6年(1873年)に亡くなりました。紀州藩の重臣として和歌山城下に屋敷を構え、田丸には一族を城代として置いて政務をとらせるという形が、代々続いていました。田丸は伊勢神宮の膝元にあたり、参宮街道と熊野街道が分かれる交通の要所でしたから、紀州藩がここを重臣に預けたのには意味がありました。
石垣と書院が残る城跡
田丸城跡は昭和28年(1953年)に三重県の史跡に指定されています。北条氏の時代の技法とされる野面積みの石垣が良く残り、本丸・二の丸・北の丸の区画をたどることができます。城門の一つである富士見門と、三の丸の奥書院は、いったん他所へ移されたのち元の位置に近い場所へ戻されました。また城跡の近くには、弘化4年(1847年)に茶人の金森得水が建てたとされる玄甲舎があり、玉城町が平成25年(2013年)に文化財へ指定しています。
廃藩後、この地はいったん和歌山県に属し、その後度会県に移され、度会県が明治9年(1876年)に三重県へ合併されて現在に至ります。県の所属が和歌山から始まっているところにも、久野家が紀州の家臣だった名残がうかがえます。
田丸藩をもっと詳しく
久野家より前の田丸城
田丸城は、南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房・顕信が築いたといわれる城です。康永元年(1342年)に足利尊氏の軍に落とされたのち、室町時代に伊勢国司の北畠氏が再び整え、北畠政郷の四男顕晴が入って田丸氏を名乗りました。
天正三年(1575年)には織田信雄の居城として改築され、三層の天守が上がります。翌天正四年(1576年)十一月、信雄の命を受けた田丸直昌が北畠一門をこの城に招いて殺害した「三瀬の変」は、伊勢の名門北畠氏の終わりを告げる事件でした。天守は天正八年(1580年)に火事で焼け、信雄は松ヶ島城へ移ります。その後は蒲生氏郷の支配を経て、江戸時代のはじめに稲葉道通が入って田丸藩となり、稲葉氏が移ったあとは藤堂氏の支配地となりました。元和五年(1619年)に紀州藩の領地となり、久野家の時代が始まります。
先祖の戦国武将・久野宗能
久野氏は遠江国久野(今の静岡県袋井市)を名字の地とする一族で、藤原南家工藤氏の流れと伝わりますが、確かな証拠はなく、ほかの説もあります。代々今川氏に仕え、明応年間には宗隆が久野城を居城としました。
戦国時代の当主久野宗能は、桶狭間の戦いで一族を失ったのち今川氏真を見限って徳川家康に従い、高天神城の戦いや小牧・長久手の戦いで手柄を立てました。天正十八年(1590年)、家康の関東移封にともなって下総佐倉で一万三千石を与えられます。ところが慶長元年(1596年)、跡継ぎの宗朝が京で同じ徳川家臣の三宅正次を私怨から殺害して改易となり、宗能は隠居して千石に減らされました。関ヶ原の戦いのあと八千五百石で旧領の久野に戻り、慶長十四年(1609年)に亡くなっています。その跡を孫の宗成が継ぎました。
宗成から純固まで八代
宗成は元和五年(1619年)、徳川頼宣の家老・田丸城代となり、千五百石の加増を受けて伊勢国田丸領で一万石を与えられました。あわせて紀州藩の田丸領五万石も預かっています。家は宗成、宗晴、宗俊、俊正、俊純、輝純、昌純、純固と続き、代々和歌山城下の屋敷で政務をとって、田丸には一族を名代として送りました。江戸時代の中ごろ、大岡忠相が山田奉行だった時期には、幕府領の山田と田丸領との間で争いが起きたことも伝わります。
明治以降の久野家
独立の願いが認められなかった久野家は、明治維新ののち士族となりました。明治十七年(1884年)の叙爵の内規では、万石以上の陪臣の家は爵位の対象から外されたため、士族のままとなっています。明治三十三年(1900年)の記録では、純固の長男宗熙は和歌山を離れて横浜に住んでおり、暮らし向きは楽ではなかったようです。明治三十九年(1906年)にも華族に加えてほしいと願い出ましたが、認められませんでした。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万石のこの藩はおよそ二百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。また久野家は大名ではなく紀州藩の家臣だったので、あくまで参考の数字です。
参考:Wikipedia「田丸城」「久野氏」



