岩滝藩/本庄家1万石:本庄道章 石畑へ藩庁を移したため廃藩

岩滝藩 本庄家1万石 最後の藩主 本庄道章
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岩滝藩の歩み

「本庄道章」の祖父「本庄道芳」は時の将軍「徳川綱吉」の母「桂昌院」の異母兄であったため、道章は宝永二年(1705年)三月に一万石の大名として取り立てられました。そして諸侯に列して岩滝藩を立藩しました。はじめは美濃各務郡の岩滝村に陣屋を構えたが、宝永六年(1709年)に陣屋を美濃山県郡高富村石畑に移したためとして岩滝藩は廃藩となりました。

四年で高富藩になりました

岩滝藩は宝永二年(1705年)三月、本庄道章が美濃国の山県郡・方県郡で六千石を加増され、あわせて一万石の大名となって成立しました。藩庁は各務郡岩滝村、いまの岐阜県岐阜市岩滝です。

ところが宝永六年(1709年)八月、居所を山県郡の高富村へ移したため、藩の名も高富藩に変わりました。岩滝藩としては四年ほどです。

後身の高富藩は、幕末まで続きます

本庄家は高富で十代、およそ百六十年にわたって一万石を治めました。藩庁は現在の岐阜県山県市高富です。

幕末最後の藩主は本庄道美。戊辰戦争では新政府から信濃路への出兵を命じられ、信濃国の飯山方面へ兵を出しています。

明治四年七月に高富県となり、十一月には岐阜県へ統合されました。本庄家は明治十七年(1884年)に子爵となっています。高富陣屋跡には石柱が立っています。

丹後の岩滝ではありません

京都府与謝野町にも岩滝という地名がありますが、丹後国に岩滝藩は存在しません。丹後の藩は宮津藩・田辺藩・峰山藩の三つで、与謝野町の岩滝は宮津藩領でした。

将軍の母の縁で生まれた藩

本庄家が大名になれたのは、はっきりした理由があります。五代将軍徳川綱吉の母 桂昌院の実家がこの家で、道章の祖父 本庄道芳が桂昌院の異母兄にあたりました。宝永二年(1705年)三月、山県郡と方県郡で六千石を加増され、もとの四千石と合わせて一万石に達して諸侯に列します。桂昌院が亡くなるのは同じ宝永二年の六月で、加増はその三か月前のことでした。

おもしろいのは、加増地が山県郡・方県郡なのに、藩庁を置いたのが各務郡の岩滝村だったという点です。四年後の宝永六年(1709年)八月に移った高富村は、その加増地である山県郡のなかにあります。藩の名が岩滝から高富へ変わったのは、領地のまとまりに藩庁を寄せた結果でした。

宮津の松平家と、もとは同じ家

本庄家にはもう一つの流れがあります。のちに丹後宮津藩主となる本庄松平家です。宝暦八年(1758年)から明治四年まで七万石で宮津を領した家で、岩滝藩の本庄家と同族にあたります。

丹後にも与謝野町岩滝という地名があり、そこは宮津藩領でした。つまり「岩滝」という地名と「本庄家」という名字が、美濃と丹後の両方に現れることになります。丹後の岩滝を藩だと取り違えやすいのは、この二重の偶然が重なっているからでもあります。藩としての岩滝は、あくまで美濃の四年間です。

桂昌院と「玉の輿」

本庄家の繁栄のもとになった桂昌院(けいしょういん)は、名を玉(お玉)といい、京都の町家の出と伝えられます。父については八百屋の主人だったという話が広く知られていますが、はっきりしたことは分かっていません。母が本庄家に再嫁したことで本庄の家の娘として育ち、三代将軍家光の側室・お万の方に仕えて大奥に入りました。やがて家光の目にとまって側室となり、のちの五代将軍綱吉を産みます。

町家の娘が将軍の母にまで上りつめたことから、「玉の輿」という言葉はこのお玉に由来する、という説も語られてきました(言葉の由来には別の説もあります)。綱吉は母を深く敬い、朝廷に働きかけて女性としては異例の従一位の位を桂昌院に贈らせています。本庄家の者たちが次々と取り立てられて大名となったのも、この母を大切にした将軍の時代だったからでした。

護国寺と桂昌院

桂昌院は信仰心が厚く、綱吉に願って江戸・音羽に護国寺を建てさせました。天和元年(1681)に創建された護国寺は、いまも東京都文京区に残り、元禄時代の本堂は国の重要文化財になっています。岩滝・高富の本庄家が幕末まで一万石の大名として続いた背景には、こうした将軍の母の存在がありました。

綱吉の小姓から美濃の殿様へ—本庄道章と高富

綱吉の側近

岩滝藩(美濃国各務郡、いまの岐阜市)の本庄道章は、元禄十年(1697年)に十五歳で四千石の旗本の家を継ぎ、中奥小姓、小姓として五代将軍綱吉のそばに仕えました。本庄家は綱吉の生母・桂昌院の実家の一族です。綱吉が亡くなった翌月の宝永六年(1709年)二月に小姓を辞め、同じ年の八月に美濃の高富へ陣屋を移しています。父は大身旗本の本庄道高、母は六角広賢の娘です。家格は譜代です。

美濃の藩なのに、四割は下野

本庄家のもとの四千石は上野国邑楽郡にありましたが、元禄十一年に下野国の梁田郡・足利郡へ替えられました。そのため岩滝藩は、美濃の藩でありながら石高の約四割が下野にありました。藩主は参勤交代をせず、江戸に住む定府の大名でした。

石畑から佐賀野へ

道章が最初に陣屋を置いたのは、高富村の字石畑でした。文化三年(1806年)に八代道昌が同じ村の佐賀野へ移す工事を始め、文化六年に完成しています。十人の藩主のうち六人が幼いか病弱で、親族や他家からの急な養子が続きました。幕末には借金が約二十万両にのぼり、上京の費用にあてる米の取り立てがきっかけで領内に一揆も起きています。

濃尾地震で消えた陣屋

廃藩後、陣屋の一部は学校に使われましたが、残っていた建物も明治二十四年(1891年)の濃尾地震で倒れました。いまは美里会館の近くに石柱が立ち、菩提寺の洞泉寺(山県市高富)が残ります。将軍の母の実家に連なる家が、美濃の山あいで借金と一揆に苦しむ。綱吉の時代の「近さ」が、時代が下るほど重荷になっていったようにも見えます。

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