立石藩の歩み
「木下延俊」は豊後日出藩主として入封しましたが、跡継ぎの候補となる男子が二人いました。息子の「俊治」と「延由」です。両人は同年の生まれで、共に側室の生んだ子なのでどちらが家督を相続してもおかしくない状況でした。そこで、延俊は臨終に際し、延由に対して「立石一万石を分与するように」遺言をしました。
この遺命に従い、第2代日出藩主となった「木下俊治」は立石5村と向野3村の都合五千石が「木下延由」に分与されることになりました。正保三年(1646年)、延由は家臣を率いて立石に入り立石藩が成立します。
寛文四年(1664年)に至り幕府の朱印状が発行され、延由は交代寄合の旗本となりました。この間に日出藩と立石領とは一時絶縁状態に至り、これは双方が代替わりによる和睦を結ぶまで続きました。家老の「長沢市之丞」は、この分与が幕府に許可されたのちの延宝元年(1673年)に自害しています。その後、立石領は代を重ねて11代「俊清」の時に幕末に至り、本藩の日出藩と共に行動し廃藩置県を迎えました。
豊臣ゆかりの木下家・立石藩
立石藩は、豊後国(現在の大分県杵築市山香町)に置かれた五千石の小藩で、藩主は木下家でした。木下家は、豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)につらなる由緒ある家柄で、近隣の日出藩を本家とする分家にあたります。石高の小さな、九州のつつましい大名家でした。
本家とともに行動
幕末の立石藩は、本家である日出藩と歩調を合わせて行動し、時代の転換を乗り切りました。小さな分家の藩として、本家とともに進退を定めたその姿は、幕末の諸藩がそれぞれの縁とつながりのなかで身を処していった様子を伝えています。
位牌に「豊臣」と書かれた藩主
木下延由には、もう一つの出自の説があります。豊臣秀頼の遺児・国松ではないか、というものです。根拠として挙げられるのは、位牌に「木下縫殿助豊臣延由」と豊臣姓が記されていることと、日出藩に一子相伝の言い伝えがあったとされることです。通説は延俊の子(母は側室 恵昌院)で、この説の真偽は定かではないとされています。ただ、五千石の分家の位牌に豊臣の姓があるという事実だけは残っています。
「藩」なのか「旗本領」なのか
寛文四年(1664年)に幕府の朱印状が出て、延由は交代寄合の旗本になりました。つまり厳密には藩ではなく旗本領です。杵築市の文化財の名称も「立石藩(領)主墓石群」と、藩と領の両方を括弧で併記した形になっています。地元の呼び方にも、この揺れが残っているわけです。
分知のいきさつも穏やかではありません。遺言は立石一万石だったのに、家老 長沢市之丞の主張で五千石にとどめられました。
陣屋跡は、中学校の跡地
立石陣屋があったのは杵築市山香町大字立石で、旧立石中学校(のちの北部中学校)の跡地にあたります。遺構は残っておらず、「北部中学校跡地」の石碑が立つだけで、陣屋についての案内板は見あたりません。菩提寺は北東の長流寺で、歴代領主の墓碑が残っています。
立石の指定文化財は、県指定無形民俗文化財の「立石楽」(昭和四十一年三月二十二日指定)、市指定有形文化財の「立石藩(領)主墓石群」と「延隆寺仁王像」(いずれも平成十七年九月二十七日指定)、「木下延由候書写の法華経」(平成二十年十二月一日指定)、市史跡の「仏ヶ迫磨崖仏・鰐口」(平成十七年九月二十七日指定)などです。
明治五年、羽柴に戻した
立石の木下家には、もう一つ変わった終わり方があります。十一代 俊清は明治三年に諸侯への昇格を願い出ましたが許されず、士族のままでした。そして明治五年(1872年)三月十日、姓を「羽柴」に復しています。豊臣秀吉が織田家中で名乗った姓です。叙爵の請願運動も行われましたが実現せず、華族には列していません。
本家の日出藩のほうは子爵になりましたが、それも最後の藩主 木下俊愿ではありません。俊愿は明治十三年四月十五日に亡くなっており、授爵したのは嗣子の木下俊哲です。
秀頼の子・国松が殿様だった?—立石領の木下家
日出藩から分かれた交代寄合
立石領は、豊後日出藩の木下家から分かれた五千石の領地です(日出藩)。領主の家は、旗本でありながら参勤交代をする交代寄合で、江戸屋敷は木挽町(いまの中央区築地一丁目付近)にありました。初代・延由の時代は、立石川をはさんで三嶋神社の対岸にあった「鳥越仮陣屋」が拠点で、寛文八年(1668年)、二代・延知のときに立石陣屋が完成しています。
国松伝説と船
初代の延由には、豊臣秀頼の子・国松だったという伝説があります。大坂落城のあと、国松は真田大助らと薩摩へ逃れ、のちに豊後の深江浜に上陸して日出城に入ったとされます。延由の位牌に入った菱に十文字の紋を、薩摩の島津家の十字紋と結びつける説もありますが、裏付けはありません。日出藩初代・木下延俊の死から三十一年後の延宝元年(1673年)、家老の長沢市之丞が主命に背いたことを詫びる遺書を残して切腹しました。延由の正体を知った悔恨が理由だという言い伝えもあります。
連歌と法華経
延由は母の願いで延隆寺を建て、承応三年(1654年)には法華経を書き写して奉納しました。二代・延知は寛文十年から延宝六年(1670〜1678年)にかけて、連歌の句集を立石天満宮に納めています。歌会には領主と家臣、町人、僧侶が一緒に加わりました。延由が急死したとき、日出藩の本家の藩主は、分知以来交流を絶っていたことを悔いたと伝わります。
震災で消えた家
最後の領主・木下俊清には実子がなく、公家・桑原家から養子の俊明を迎えました。俊明は華族にしてほしいと願い出ましたが、実現しませんでした。俊明は大正5年(1916年)に亡くなり、跡を継ぐはずの娘のちかは、未婚のまま大正12年(1923年)の関東大震災で行方がわからなくなったとされます。家はここで絶えました。秀頼の血を引くと伝えられた家が、近代の始まりとともに静かに消えていく。立石は、歴史と伝説の境目にある土地です。
立石藩をもっと詳しく
杉原から木下へ—ねねの実家の家系
立石の木下家は、豊臣秀吉の正室ねね(高台院)の実家の流れです。先祖は桓武平氏の平貞盛の子孫と称し、もとは杉原氏を名のっていました。秀吉に重く用いられて木下の名字と豊臣の姓を与えられ、ねねの兄・家定の子孫が備中足守藩と豊後日出藩の大名になります。日出藩初代の延俊は寛永19年(1642年)1月に亡くなりますが、その遺言には、延由に立石1万石を分けることに加えて、羽柴の姓を使わせることも含まれていたと伝えられます。
速見郡の8か村と、記録の上の「延次」
立石領の領地は、豊後国速見郡の立石5か村と向野3か村、合わせて5000石です。分知ははじめ幕府に届けない内々のもので、寛文4年(1664年)の朱印状でようやく公のものになりました。日出藩の3万石から1万石を分けるという遺言そのものが不自然だという指摘もあり、幕府の記録では延由の名が「延次」となっていることも、この家の出自をめぐる謎のひとつに数えられています。国松説を広く知らせたのは、日出藩木下家18代の木下俊𠘑が昭和43年(1968年)に出した『秀頼は薩摩で生きていた』で、家に伝わる一子相伝の口伝をもとにしたものでした。
本家の石高はどう変わったか
立石の5000石は、新しく与えられた土地ではなく、日出藩の領地の中から切り分けられたものです。日出藩は慶長5年(1600年)の入封のとき速見郡などで3万石でしたが、寛永19年(1642年)からは2万5000石になりました。本家の側から見れば、領地の6分の1を失ったことになります。遺言どおり1万石を分ければ本家は2万石まで減っていたわけで、家老が5000石にとどめるよう主張したのには、本家の格式を守るという理由がありました。分知をめぐって本家と立石が長く絶縁状態になったのも、この痛みの大きさを考えると無理のないことでした。
延由は何歳で亡くなったか
延由の年齢にも、記録によって食い違いがあります。幕府がまとめた『寛政重修諸家譜』などでは享年49で、ここから逆算すると慶長15年(1610年)の生まれです。一方、立石の菩提寺・長流寺の過去帳は享年45としています。国松説では、国松の生まれは慶長19年(1614年)11月9日とされており、享年45ならこちらに近くなります。もっとも、幕府の家譜は日出・足守・立石の木下家をいずれも豊臣氏として載せており、記録だけで延由の正体を決めることはできません。
血のつながらない領主たち
立石の領主は11代続きましたが、途中から外の家の養子が続きます。7代の俊直は伊勢菰野藩主・土方雄端の三男で、延由とは血のつながりがありません。8代の俊隆は6代俊昌の死後に生まれた子で、俊直の養子となって12歳で家を継ぎました。9代の俊芳は久留米藩主・有馬頼貴の十男、10代の俊国は菰野藩主・土方義苗の次男です。そして11代俊清の養子・俊明は公家の桑原為政の子でした。こうして、立石の木下家は足守や日出の木下家とも血縁が切れていきます。
領校の無逸館
5000石の小さな領地ですが、立石には領主が開いた学校がありました。無逸館です。天保8年(1837年)、10代の俊国が後藤八衛を教授に迎え、漢学・書道・剣術の3つの科目を教えました。交代寄合として参勤交代を続けながら、領地に学校を持っていたことになります。
動員兵力の目安
慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の規定では、1万石あたり235人を出すことになっています。これを立石の5000石に比例させると、目安はおよそ120人です。ただしこの規定は案にとどまり、正式には発布されなかったとする説もあります。



