京都・木屋町、高瀬川のほとりに、夜のネオンを背にして一本の石碑が立っている。「佐久間象山先生遭難之碑」――そして同じ碑には「大村益次郎郷遭難之碑」の文字も刻まれている。幕末から明治へと時代がなだれ込むなか、西洋の知を説いた二人の先覚者が、いずれもこの木屋町界隈で凶刃に斃れた。開明的であったがゆえに命を落とした二人の名が、同じ石に寄り添って刻まれているさまは、時代の激しさを何よりも雄弁に物語る。
背後には明るいレストランやパブが軒を連ね、若者たちが行き交う。その光のなかに、碑はあまりにひっそりと立っていた。

佐久間象山とは ― 信州が生んだ知の巨人
佐久間象山(さくま しょうざん)は、文化八年(一八一一)、信州松代藩に生まれた。若くして江戸に出て儒者・佐藤一斎に朱子学を学び、その俊才ぶりで知られたが、彼の真骨頂は、東洋の学問にとどまらなかったところにある。アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことに強い衝撃を受けた象山は、いち早く西洋の砲術・兵学・科学へと目を向け、独学に近い形でオランダ語を修めていった。
その探究心はとどまるところを知らず、大砲の鋳造やガラスの製造、電信の実験、さらには地震予知の器械の考案まで、当時の日本人としては驚くほど広範な西洋技術に挑んだと伝えられる。「東洋のダ・ヴィンチ」とでも呼びたくなるような、幕末屈指の知の巨人だったのである。
「東洋道徳、西洋芸術」という思想
象山の思想を象徴するのが、「東洋道徳、西洋芸術(技術)」という言葉である。東洋で培われてきた精神・道徳を土台としながら、西洋の進んだ技術を積極的に取り入れる――そうしてこそ日本は列強に伍していける、という考えであった。ともすれば「西洋の物はすべて邪」として攘夷を叫ぶ声が強かった時代に、象山は冷静に世界を見渡し、開国と殖産興国こそが日本の進むべき道だと説いた。それは、時代の何歩も先を行く見識であった。
綺羅星のごとき門下生
象山の江戸の私塾には、のちに時代を動かすことになる俊才が数多く集まった。海軍を築いた勝海舟、松下村塾で多くの志士を育てた吉田松陰、そして海援隊の坂本龍馬――いずれも、直接・間接に象山の影響を受けた人物である。ほかにも小林虎三郎、加藤弘之ら、明治の日本を担う人材が、この塾から巣立っていった。象山は勝海舟の妹を妻に迎えており、勝とは義兄弟の間柄でもあった。一人の思想家の周囲に、これほどの人材が集ったこと自体が、その見識の高さを物語っている。
吉田松陰の密航と、九年の蟄居
象山の運命を大きく変えたのが、弟子・吉田松陰の海外密航事件だった。嘉永七年(一八五四)、松陰はペリー艦隊の黒船に乗り込んで海外へ渡ろうと試み、失敗して捕らえられる。師である象山も、この計画に関与したとして連座し、以後およそ九年もの長きにわたって、郷里・松代での蟄居を余儀なくされた。世界へ出て学ぶことを志した師弟が、鎖国の壁に阻まれ罰せられる――その姿は、時代の矛盾そのものであった。
開国を説くために上洛す
長い蟄居を解かれた象山は、元治元年(一八六四)、幕府に招かれて京へ上る。彼はここで、朝廷と幕府が手を結ぶ公武合体と、思い切った開国の必要を説いてまわった。時には彦根や別の地への遷都論まで唱えたと伝わる。象山は西洋式の鞍を置いた馬に洋装でまたがり、堂々と京の町を行き来したという。その進取の気性に富んだ姿は人々の目を引いたが、同時に、攘夷派の激しい憎悪を買うことにもなった。開国を唱える者は「国賊」――そう見なす空気が、当時の京には満ちていたのである。
木屋町の凶刃 ― 元治元年七月十一日
そして悲劇は起きた。元治元年七月十一日、象山は木屋町を騎馬で通りかかったところを、肥後の河上彦斎らの攘夷派に襲われ、白昼、斬殺された。享年五十四。「人斬り彦斎」と恐れられた河上は、のちに象山ほどの人物を斬ったことを悔いたとも伝えられる。時代を先取りしすぎた思想家は、その思想を存分に発揮する前に、志半ばで斃れた。もし象山が生きて維新を迎えていたら、日本の近代化はまた違ったものになっていたかもしれない――そう惜しむ声は、今も絶えない。
息子・三浦啓之助と新選組
象山の死には、後日談がある。その子・三浦啓之助は、父の仇を討たんとの思いもあって、あの新選組に入隊した。しかし隊の水にはなじめなかったようで、目立った働きを残すことなく隊を離れている。開国思想の巨人の息子が、尊皇攘夷を掲げて生まれた武装集団に身を投じたというのは、幕末という時代の複雑さを映す、皮肉なめぐり合わせであった。
もう一人の遭難者 ― 大村益次郎
同じ碑にその名を刻まれる大村益次郎(おおむら ますじろう)は、もとの名を村田蔵六といい、長州(周防)の村医者の家に生まれた。大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学と医学を学び、その塾頭にまでなった秀才である。やがて宇和島藩に招かれて軍艦の建造に携わり、幕府の講武所でも教え、ついには郷里・長州で藩の軍制を西洋式に一新した。第二次長州征伐(四境戦争)では、近代兵器と合理的な戦術で幕府の大軍を退け、その軍事的才能をいかんなく発揮した。
戊辰戦争では、新政府軍の事実上の総司令官として、上野の彰義隊をわずか一日で撃破するなど、各地の戦いを指揮した。維新後は兵部大輔(今日の国防次官にあたる)として、身分によらず国民から兵を集める徴兵制など、近代的な軍制の樹立に力を尽くす。日本陸軍の創始者ともいうべき人物であった。
大村暗殺 ― 明治二年の悲劇
しかし、その先進的な改革は、特権を奪われることになる士族たちの猛烈な反感を買った。明治二年(一八六九)九月、大村は京都木屋町の旅館で会食中、不平士族の一団に襲撃される。太ももなどに深い傷を負った彼は、大阪の病院へ移されて治療を受けたが、傷口から広がった敗血症により、その年の十一月、ついに世を去った。西洋の知で新しい国を築こうとした二人が、時をへだてて同じ木屋町で凶刃に斃れたのは、あまりに象徴的である。なお、東京の靖国神社に立つ大きな銅像は、この大村益次郎の像である。
象山の多彩な挑戦 ― 大砲からガラス、電信まで
佐久間象山の探究は、机上の学問にとどまらなかった。彼は実際に手を動かし、次々と西洋の技術を試みた実践家でもあった。西洋式の大砲を鋳造し、火薬を研究し、さらにはガラスの製造や、電信機を用いた通信の実験までおこなったと伝えられる。地震を予知する器械の考案に取り組んだという逸話も残る。まだ多くの日本人が西洋を「野蛮」と見下していた時代に、象山はその技術の本質を見抜き、自らの手で再現しようとした。その姿は、一人の思想家というより、万能の科学者に近い。彼が「日本のダ・ヴィンチ」とも評される所以である。
大村益次郎、適塾から宇和島へ
もう一人の遭難者・大村益次郎の歩みも、たどってみると実に興味深い。長州の村医者の子として生まれた彼は、大坂の緒方洪庵が開いた蘭学塾「適塾」に学んだ。ここは福沢諭吉らも輩出した当時最高峰の学問所であり、大村はその塾頭を務めるほどの秀才だった。やがてその蘭学と兵学の知識を買われ、四国の宇和島藩に招かれて、西洋式の軍艦の建造にまで携わる。医者として出発した男が、いつしか日本の軍事を根底から変える人物へと育っていったのである。
四境戦争と上野戦争 ― 「軍神」大村の戦さ
大村益次郎の名を不動のものにしたのは、戦場での圧倒的な采配だった。慶応二年の第二次長州征伐(四境戦争)では、近代兵器と合理的な戦術を駆使して、数で勝る幕府の大軍を各地で打ち破った。続く戊辰戦争では、新政府軍の事実上の総司令官として、江戸・上野に立てこもる彰義隊を、周到な砲撃の配置によってわずか一日で壊滅させている。感情を交えず、数理に基づいて戦いを設計するその手腕は、まさに近代的な軍人そのものであった。彼は日本陸軍の生みの親と称される。
靖国神社に立つ銅像
維新後、兵部大輔となった大村は、身分にとらわれず広く国民から兵を集める徴兵制度の構想など、近代軍制の礎を築いた。その功績をたたえ、東京・九段の靖国神社の境内には、彼の大きな銅像が立っている。日本で最初に西洋式の技法で作られた西洋式銅像の一つともいわれるこの像は、軍服姿ではなく和装で、遠く品川の海(かつて彼が防備を案じた台場の方角)を見つめている。木屋町で受けた傷がもとで非業の死を遂げた男は、こうして首都の一角から、今も日本を見守り続けている。
なぜ二人は狙われたのか ― 攘夷という時代の空気
象山も大村も、私利私欲のために生きた人物ではない。むしろ日本の未来を真剣に憂い、その進むべき道を誰よりも冷静に見据えていた。それでも彼らは、凶刃に斃れた。理由は、彼らが「西洋に学べ」と説いたからにほかならない。外国を打ち払えという攘夷の熱狂、そして特権を奪われることへの士族の反発――そうした時代の激しい空気のなかで、先を見通す者ほど危険視され、命を狙われた。二人の死は、新しい時代が、いかに多くの犠牲の上に築かれたかを、静かに、しかし重く教えてくれる。
象山と勝海舟 ― 義兄弟の縁
佐久間象山と勝海舟の結びつきは、単なる師弟にとどまらない。象山は勝の妹・順子を妻に迎えており、二人は義兄弟の間柄でもあった。海軍を築き、江戸無血開城を成し遂げた勝海舟が、若き日に西洋の学問へと目を開かれた背後には、この義兄・象山の存在があったといわれる。そして、その勝の門をたたいたのが坂本龍馬であった。象山から勝へ、勝から龍馬へ――西洋に学び、国を開こうとする思想の水脈が、人から人へと確かに受け継がれていったのである。木屋町の一角に立つ象山の碑は、その大きな流れの源の一つを示す場所でもある。
郷里に祀られる ― 松代の象山神社
非業の死を遂げた象山だが、その郷里・信州松代では、今も深く敬われている。松代には彼を祭神として祀る「象山神社」が建てられ、旧宅や、彼が思索にふけった山も史跡として残る。時代に先んじすぎたために都で斃れた男は、故郷では神として祀られ、その先見の明を長く語り継がれている。京都・木屋町の碑と、信州松代の神社。遠く離れた二つの地が、一人の思想家の生と死を、それぞれの形で今に伝えている。
木屋町 ― 幕末暗殺の舞台
それにしても、なぜ象山も大村も、この木屋町で狙われたのか。高瀬川に沿って旅館や料理屋が軒を連ねたこの界隈は、諸藩の武士や志士たちが行き交い、密談を交わす、いわば幕末京都の政治の裏舞台であった。人の出入りが多く、身をひそめるにも、また人を襲うにも都合がよかった。それゆえこの一帯では、象山や大村のほかにも、幾人もの要人が暗殺の刃にかかっている。今は洒落た飲食店が並ぶこの通りを歩けば、あちこちに立つ小さな石碑が、華やかさの陰に流された多くの血を、そっと物語っていることに気づくだろう。
高瀬川のほとりで ― 二人が切り開いた道
今この碑の前に立つと、背後の店々の灯りがまぶしいほどに明るい。夜ごと人々が集い、杯を交わし、笑い声が絶えない。その平和な光景と、足もとの古い石碑との落差に、しばし立ちすくんでしまう。私たちが当たり前のように享受している「西洋に開かれた日本」は、象山や大村のような先覚者たちが、命がけで切り開いた道の先にあるのだ。そう思うと、木屋町の灯りが、少し違って見えた。高瀬川のせせらぎだけが、あの日と変わらずに流れていた。

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佐久間象山・大村益次郎 遭難之碑へのアクセス・地図
京阪「三条」駅、または地下鉄・阪急「京都河原町」駅から徒歩約5分。木屋町通、三条から少し北に入った高瀬川沿いにあります。池田屋跡や近江屋跡もすぐ近くで、あわせて歩けます。
