松江藩の歩み
寛永十五年(1638年)、徳川家康の次男・結城秀康の三男にあたる松平直政が、信濃松本から十八万六千石で入りました。ここから明治まで、松江は越前松平家の一門が治めます。以後、出雲一国は越前松平家の領するところとなりました。あわせて、幕府の領地である隠岐(一万四千石)の管理も任されました。
鎮撫使に会いにいかなかったことが、咎められました
このページは松江城と茶の湯の話で終わっていましたが、松江藩の幕末にはもう一つ、落とせない出来事があります。山陰道鎮撫使をめぐる「雲藩事件」です。
立命館大学史資料センターが鎮撫使の道筋をたどった記録によると、松江藩は慶応四年正月十六日に「勤王の外これなし」と決めています。親藩でありながら、わりに早い決断でした。ところが、その後の振る舞いが新政府の不信を招きます。
鎮撫使総督の西園寺公望は、二月一日に村岡へ滞陣し、二月五日に鳥取城下へ入り、二月二十四日に米子へ着陣。そして二月二十八日、辰刻つまり午前八時に米子を発ち、同じ日の戌刻、午後八時に松江城の三之丸へ到着しました。一日で米子から松江へ入ったことになります。
問題は、この間に松江藩が伺候の機会を失ったことでした。わざと鎮撫使を避けたのではないか、と疑われます。勤王と決めていたのに、顔を出さなかったことが敵対行為と見なされたわけです。
申し渡された四つの条件
謝罪として申し渡されたのは四ヶ条でした。雲州半国の返上、重役の死をもって謝罪すること、稚子を人質に入れること、そして勅使が国境を引き受けたあとに謝罪すること。半国の返上と重役の死というのは、かなり重い内容です。
結果として松江藩は罪を赦され、名の挙がっていた大橋も死を免ぜられました。十八万六千石を半分失うところだったのが、不問に落ち着いたことになります。(くわしくは山陰道鎮撫総督とは)
なお、この四ヶ条の申し渡しを二月十三日とする記述が、二月二十八日の松江到着より前に置かれており、前後の関係がはっきりしません。資料の配列どおりに書いておきます。
勤王と決めていながら咎められ、半国返上を言われて赦される。鳥羽伏見のあとの数か月、ほとんどの藩が似たような綱渡りをしていました。松江藩の場合は、戦ったからではなく、会いに行かなかったことが咎めの理由でした。

幕末の松江藩では、藩内にフランス人を招いて砲術や西洋医術を導入し、イギリスやフランスへの留学生派遣を積極的に行ないました。さらにアメリカから軍艦「八雲丸」を導入し海軍にも力を入れました。元治元年(1864年)四月十八日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に遷任します。また、慶応二年(1866年)には女学校を創設し、それ以前の文久三年(1863年)には、軍備増強を目指して隠岐において17歳から50歳の民間における男子を徴兵して農兵隊を創設しました。
慶応二年(1866年)に「第二次長州征伐」が起こると、藩主「松平定安」は長州藩に敗れて国を追われた石見浜田藩主「松平武聰」を保護しています。その後、長州藩の軍勢が出雲国境にまで迫ってきたため、慶応三年(1867年)に幕府に無断で長州藩と単独講和せざるを得なくなりました。
その後も松江藩はご親藩ということもあり、政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も意思表明を鮮明にしなかったため新政府の不信を買いました。幕末の松江藩は親藩として迷いましたが、最後は新政府に従う道を選び、慶応四年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の警備を受け持ちました。この時、奥羽戦争へ従うため北上していた軍艦「八雲丸」が、能登沖において座礁沈没してしまいました。
※軍艦八雲丸
その同じ年、松江藩が隠岐に置いていた郡代が、島の人々に追い出される事件が起きます(隠岐騒動)。郡代を追い出したあと、隠岐では島民による自治の組織ができました。松江藩がいったん兵を送って取り戻しますが、鳥取藩と新政府が間に入ったことで自治がふたたび認められ、隠岐はその後、鳥取藩が預かることになりました。そして明治二年二月二十五日(1869年4月6日)、全国の廃藩置県より2年も早く、隠岐県が置かれています。
明治二年(1869年)六月十七日、定安は版籍奉還にて松江藩知事となり、明治四年(1871年)七月十四日、廃藩置県で免官されました。松江藩そのものは、明治四年(1871年)の廃藩置県で松江県となり、のちに島根県に入りました。藩主家の松平氏は、明治十七年(1884年)の華族令で伯爵になりました。松江藩から分かれた藩には、広瀬藩と母里藩、それに一時だけあった松江新田藩があります。
松江城を築いた堀尾吉晴と、松平家の前の二家
松平家が入る前の松江は、二つの大名家が治めていました。関ヶ原のあと出雲・隠岐二十四万石を与えられた堀尾家と、その断絶後に入った京極家です。堀尾吉晴は豊臣秀吉の三中老の一人で、それまでの富田城(月山富田城)に代わる新しい城として、宍道湖のほとりの亀田山に松江城を築き、慶長十六年(1611)ごろに完成させました。いまも残る天守は、この堀尾家の時代のものです。黒い下見板張りの外観から「千鳥城」とも呼ばれ、平成二十七年(2015)に国宝に指定されました。
堀尾家は三代で跡継ぎが絶え、続いて入った京極忠高も寛永十四年(1637)に跡継ぎのないまま亡くなります。その翌年に入ったのが、結城秀康の三男・松平直政でした。直政は大坂冬の陣で真田幸村から軍扇を投げ与えられたと伝わる人物です(姉崎藩)。
茶の湯の町としての松江
直政の子孫からは、江戸中期に茶人として名高い七代藩主・松平治郷(不昧)が出ています(松江新田藩)。家老・朝日丹波の財政改革で立て直された松江藩は、不昧の時代に茶の湯の文化を城下に根づかせ、いまも和菓子と抹茶の町として知られます。幕末の松江藩が西洋式の軍備や留学生の派遣に力を注ぐことができたのは、この江戸中期の立て直しがあったからでした。
明治に入ると、松江には英語教師としてラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がやってきて、城下の旧武家屋敷に住み、松江の人々や怪談を世界に紹介しています。
松江藩をもっと詳しく
藩祖・松平直政の歩み
雲州松平家の祖・松平直政は、慶長六年(1601年)に越前の結城秀康の三男として生まれました。徳川家康は祖父、二代将軍・秀忠は叔父、三代将軍・家光は従弟にあたり、家光とは幼いころから親しかったといわれます。大坂の陣では兄・松平忠直の軍に加わり、夏の陣で手柄を立てて家康にほめられました。
その後の直政は、移るたびに石高を増やしていきます。寛永元年(1624年)に越前大野藩五万石、寛永十年(1633年)に信濃松本藩七万石、そして寛永十五年(1638年)に出雲松江藩十八万六千石へ移り、国持大名となりました。この移封には、東の鳥取藩、西の長州藩、南の岡山藩・広島藩ににらみをきかせるねらいがあり、直政の姉・喜佐姫が長州藩主・毛利秀就の正室だった縁も重視されたとされます。
本家と分家、重臣の家
直政の兄弟には、越前福井の松平忠直・忠昌、弟の直基・直良がいて、越前松平家の一門は各地に広がりました。松江藩からは支藩として広瀬藩と母里藩が分かれたほか、元禄十四年(1701年)には二代藩主・綱隆の五男・近憲が一万石を分けられて松江新田藩を立てています。ただし近憲は宝永元年(1704年)に兄で三代藩主の綱近の養子となって本家を継ぎ(四代・吉透)、所領は松江藩に戻されて新田藩はなくなりました。
直政は出雲に入るとき、育ての親でもある朝日重政(七千石)や乙部可正(五千石)を重く用い、前の領主だった堀尾家・京極家の旧臣も召し抱えました。なかでも福島正則の旧臣・大橋茂右衛門は六千石で家老に迎えられています。朝日丹波家、乙部九郎兵衛家、大橋茂右衛門家などは、その後も松江藩の重臣の家として続きました。
藩の財政と特産
松江藩の財政は、年貢米だけでは成り立たず、入封のころから苦しかったといわれます。そこで早くから専売制をしき、木蝋・朝鮮人参・木綿、そして鉄の生産を藩が取りしきりました。出雲は古くから砂鉄を使う「たたら製鉄」がさかんな土地で、享保十一年(1726年)には五代藩主・宣維が、田部・桜井・絲原という山林地主の三家を中心とする組合に製鉄を独占させる仕組みをつくっています。家老・朝日丹波の改革により、寛政年間(1789〜1801年)には八万両もの蓄えができるまでになりましたが、七代・治郷(不昧)は晩年に多くの出費を重ね、ふたたび財政を傾けたともいわれます。
領地のようす
幕末の松江藩領は、出雲国の島根郡(五十一村)、秋鹿郡(二十村)、楯縫郡(二十三村)、出雲郡(十九村)、仁多郡(七十二村)、大原郡(四十六村)の全域と、神門・飯石・能義・意宇の各郡の大部分でした。残りは支藩の広瀬藩・母里藩の領地です。このほか幕府の領地である隠岐国の海士・知夫・穏地・周吉の四郡も預かっていました。今の島根県東部の大半にあたります。
最後の藩主・松平定安
最後の藩主・松平定安は、天保六年(1835年)に美作津山藩主・松平斉孝の七男として生まれました。嘉永六年(1853年)、九代藩主・松平斉貴が家臣や親戚によって隠居させられたあと、その娘婿として家督を継ぎ、同じ年に十三代将軍・徳川家定から一字をもらって定安と名乗ります。文久二年(1862年)には西洋学校を設けています。明治二年(1869年)二月には、出羽守から出雲守に改めました。
廃藩置県のあと、定安は明治五年(1872年)にいったん隠居して、斉貴の実子・直応に家督を譲りました。明治十年(1877年)に直応が隠居したため再び当主となり、明治十五年(1882年)に三男・直亮へ家督を譲って、同じ年の十二月一日に四十八歳で亡くなりました。大正十三年(1924年)には従三位を贈られています。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、十八万六千石のこの藩はおよそ四千三百七十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「松江藩」「松平直政」「松平定安」
場所・アクセス・地図
参考資料:Wikipedia日本語版「松江藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。
この藩が持っていた艦船
松江藩の艦船として当サイトで扱っているのは一隻です。
- 八雲丸一番/スクリュー汽船
幕末の艦船を二十八の勢力に分けて並べると、そのうち十四は一隻しか名前が残っていません。蒸気船は買うだけでなく、燃料を手配し、機関を扱える者を育て、修理の場所まで用意しなければ動きません。一隻を持つことさえ重い買い物でした。



