藩の歩み
松江新田藩は、江戸時代中期にあった松江藩の新田分知による支藩です。元禄十四年(1701年)松江藩2代藩主「綱隆」の五男「近憲」が、兄の3代藩主綱近から一万石を分与されて立藩しました。近憲は宝永元年(1704年)、兄で3代松江藩主「綱近」の養子となり本藩を相続して4代藩主「吉透」となったため、所領は松江藩に還付され廃藩となりました。
本家・松江藩との関係
松江新田藩は、出雲の松江藩(松平家)の支藩で、松平家の分家が一万石を領しました。
ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。藩主・松平近憲が本家・松江藩の家督を継いだため、本藩へ還って廃藩となりました。幕末の松江藩の動きは本家のページをご覧ください。
廃藩のあと—八十日間だけ、隠岐に自治政府ができた
松江新田藩は元禄十四年(1701年)に松平近憲が一万石を分けられて立ちましたが、宝永元年(1704年)に近憲が兄の養子となって本家を継いだため、所領は松江藩に戻されて廃藩となりました。三年です。所領は出雲国内とされますが具体的な地名の記載がなく、陣屋がどこにあったかはわかっていません。
以後、この地は松江藩領として幕末を迎えます。幕末の藩主は松平定安。文久二年から西洋学校を設け、フランス人を招いて砲術と医学を導入し、アメリカから軍艦「八雲丸」を買い入れています。ただし政治の姿勢は曖昧で、大政奉還と王政復古のあともどちらつかずでした。最終的には慶応四年に新政府側につきます。
そしてこの藩には、もうひとつの顔がありました。幕府領である隠岐を預かって支配していたのです。そこで起きたのが隠岐騒動でした。
発端は、松江藩の役人が山陰道鎮撫使からの書状を開封し、隠岐が朝廷領に移されたことを島民に隠したことでした。慶応四年三月十九日、島民およそ三千人が陣屋を取り囲んで六か条の要求を突きつけ、郡代を追放します。
島民はそのあと「総会所」を設け、頭取・算用衆・会議所など十六の組織からなる自治の体制を作りました。そして八十日間、自分たちで島を治めたのです。
松江藩は四月末から兵を送り、五月十日の戦闘で死者十四人・負傷者八人を出して陣屋を取り戻しました。ところが新政府はこの派兵を不当と見て監察使を送り、明治元年十一月に隠岐の取り締まりは鳥取藩に移され、明治四年には関係者が処罰されました。力ずくで取り返した側が、あとで咎められたことになります。
松江城は国宝で、現存十二天守のひとつです。七代・松平治郷(不昧公)の茶の湯は、いまも「不昧公好み」として出雲に生きています。
分家の殿様の曾孫が、茶人・松平不昧
松江新田藩の主から本家の四代藩主となった松平吉透(近憲)の血筋は、その後の松江藩をつないでいきました。吉透の子・宣維、孫の宗衍(むねのぶ)と続き、曾孫にあたるのが七代藩主・松平治郷、号して不昧(ふまい)です。
不昧が家を継いだ明和四年(1767)、松江藩は大きな借金を抱えて「雲州は滅びる」とまでいわれるほどでした。家老の朝日丹波(郷保)は、藩の支出を切り詰め、治水や新田開発、木綿や朝鮮人参などの産業を育てる改革を進め、藩の財政を立て直します。その一方で不昧は茶の湯に打ち込み、不昧流と呼ばれる茶道の一派を開くとともに、名物と呼ばれる茶道具を数多く集めました。松江がいまも和菓子と抹茶の町として知られるのは、この不昧の時代に根づいた茶の湯の文化によるものです。
わずか三年の分家が残したもの
松江新田藩はわずか三年で消えた藩ですが、その藩主が本家を継いだことで、のちの松江藩の名君と改革の時代につながりました。分家として一万石を与えられた次男が、本家の血筋そのものになったのです。幕末の松江藩が西洋式の軍備を整え、軍艦を買い入れることができたのも、江戸中期に立て直された藩の土台があったからでした。

