【現地取材】龍岡城五稜郭を歩く——信州の小藩がのこした、もう一つの星形城郭

「五稜郭」と聞けば、たいていの人は北海道の函館を思い浮かべます。私もそうでした。だから長野県佐久市に、もう一つの五稜郭があると知ったときは、正直おどろきました。その名は龍岡城(たつおかじょう)五稜郭。幕末、わずか一万二千石ほどの小藩が、信州の山あいに築いた西洋式の星形城郭です。函館ほど有名ではないこの城を、今回はひとりで訪ねてきました。現地に立って感じたのは——規模は小さくても、この藩は本気で「西洋の城」を造ろうとしたのだ、という熱でした。

目次

もう一つの五稜郭——龍岡城とは

龍岡城は、西洋の稜堡(りょうほ)式築城術にならった星形の城郭です。城壁の角を鋭く突き出させることで、攻め寄せる敵に対して死角なく横から銃砲を浴びせられる——それが星形の理由です。現地の案内板は、この城について「函館五稜郭址とともに、わが国の城址の中でただ二つの貴重な洋式城郭である」とはっきり記していました。日本にたった二つ。その片方が、この佐久の地にあるのです。

もっとも、完成度でいえば函館には及びません。稜堡はすべては造りきれず、水堀もぐるり一周とはいかなかった。案内板の一枚には、慶応三年(1867)四月に「一応の完成をみて」領民に公開した、とありました。“一応”というひかえめな言葉に、この城が抱えた事情がにじんでいます。函館五稜郭については五稜郭のページもあわせてどうぞ。

築いたのは殿様・松平乗謨——のちに日本赤十字を興した人

この城を築いたのが、田野口(龍岡)藩主松平乗謨(まつだいらのりかた)です。もともとは三河奥殿(おくとの)藩の松平家で、信州に一万二千石、三河に四千石という小藩でした。宝永以来百六十年、三河に本拠を置き佐久には陣屋を構えて領内二十二か村を治めてきましたが、十一代乗謨の代、幕末の激動に応じて信州へ居館を移すことを決断。元治元年(1864)三月に着工し、慶応三年(1867)に竣工、地名をとって龍岡城と名づけました。

「史跡 龍岡城趾」の石標。国指定史跡として保存されている。
「史跡 龍岡城趾」の石標の前で。国の史跡に指定されている。

乗謨という人物がまた興味深い。案内板によれば、学才・識見にすぐれ、幕府では陸軍奉行・老中格・陸軍総裁という洋式軍制の中枢を歴任しました。星形の城を築いたのも、こうした西洋志向の人だったからこそ、と腑に落ちます。そして明治に入ると大給恒(おぎゅうゆずる)と名を改め、佐野常民らとともに、日本赤十字社の前身である「博愛社」を創設しました。幕府の軍人が、維新後は人道支援の草分けになる——一人の人生のなかに、幕末から明治への大きな転換が刻まれています。藩そのものの歩みは田野口藩のページもご覧ください。

石高に見合わぬ「必死さ」——一万二千石の背伸び

現地を歩いて、いちばん胸を打たれたのはここでした。わずか一万二千石(三河とあわせても一万六千石ほど)の小藩が、身の丈をはるかに超える西洋式城郭に挑んだという事実です。城の用地一万余坪は田野口村から、石材や木材は領内から献納され、総費用は四万円余にのぼったといいます。財政に余裕のあるはずもない小藩が、領民の力を総動員して、必死に「時代に追いつく城」を造ろうとしたのです。

石垣の稜線に沿って歩くと、そのかたちは確かに西洋の城のもの。けれど石の一つひとつは、信州の職人が手で積んだ和の技です。西洋の設計図を、和の道具と小藩の財力で必死に形にしようとした——その背伸びの跡が、そのまま石垣になって残っている。函館の壮大さとはまた別の、いじらしいほどの一途さがありました。

今は小学校の校庭に——残った濠と大台所

龍岡城のもう一つの意外な姿が、これです。城跡が、そのまま小学校の敷地になっているのです。明治四年の廃藩、翌明治五年(1872)には城の建物の多くが取り壊されましたが、二の丸の建物は学校として転用され、以来ずっと、この星形の城跡で子どもたちが学んできました。今も敷地には小学校が建ち、校門をくぐると、かつての城内が校庭として広がっています。

建物では、藩の台所だった「大台所」が今も現存し、水堀と石塁とともに、往時の城の骨格を伝えています。廃城から百五十年、城は消えても、濠と石垣と一棟の建物、そして子どもたちの声が、この星形の土地に受け継がれていました。境内の片隅には、昭和九年(1934)に文部省が立てた黒ずんだ木の案内板も残り、史跡として守られてきた時間の長さを感じさせます。

現地を歩いて

正直に言えば、龍岡城は派手な城ではありません。天守もなければ、函館のような広大さもない。けれど、案内板を読み、石垣の稜線をたどり、小学校の校庭になった城内を眺めていると、じわじわと胸に迫るものがありました。函館のほかにも、日本にこんな星形の城があったのかという驚き。そして、一万二千石の小藩が、身の丈に見合わぬ大工事に必死で挑んだのだという事実。西洋に追いつこうと背伸びした幕末の日本の縮図が、この小さな星形にぎゅっと詰まっている気がしました。

龍岡城五稜郭の現地案内板。星形城郭の歴史を静かに伝える。
現地の案内板。派手さはなくとも、幕末の小藩の心意気が刻まれている。

大きさや完成度で函館にかなわなくても、龍岡城には龍岡城の物語があります。時代に追いつこうと精いっぱい背伸びした、小さな藩の一途さ。それを味わいに、佐久を訪ねてみてください。

アクセス(所在地)

龍岡城五稜郭は、長野県佐久市田口。JR小海線「龍岡城駅」から徒歩約20分、または「臼田駅」から徒歩圏です。星形の水堀と石垣、大台所が城跡(現在は小学校の敷地)にまとまって残り、近くの「五稜郭であいの館」で模型や資料を見られます。※学校の敷地内は、見学の際のマナーにご配慮ください。

※本記事の史実は、龍岡城五稜郭の現地案内板(佐久市/文部省)および公開資料をもとに確認して記しています。築城した藩については田野口藩、もう一つの五稜郭については函館・五稜郭のページもあわせてご覧ください。

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