【現地取材】天空の城・竹田城跡から生野銀山へ——維新の魁となった「生野義挙」を歩く

「日本のマチュピチュ」とも呼ばれる竹田城跡と、そこから車で30分ほどの生野銀山。どちらも兵庫県朝来市にありますが、竹田城そのものは慶長5年(1600年)に廃城となっており、幕末とは直接の関わりを持ちません。ただしすぐ近くの生野では、文久3年(1863年)に幕末史に名を残す「生野の変(生野義挙)」が起きています。壮大な石垣の城を歩いたその足で、維新の魁となった生野義挙の跡地も訪ねてきました。

史跡竹田城跡の入口に立つ木造の門と案内板
国史跡・竹田城跡の入口に立つ木造の門。ここから山道を登り、山上の石垣群へと向かう。
目次

竹田城とは——雲海に浮かぶ「天空の城」

竹田城は嘉吉年間(1441〜1444年頃)、但馬守護・山名宗全の命により太田垣光景が築いたと伝わり、以後7代にわたって太田垣氏が城主を務めました。天正8年(1580年)、羽柴(豊臣)秀吉による但馬攻めで太田垣氏の支配は終わり、城主は目まぐるしく交代します。天正13年(1585年)には赤松広秀(斎村政広)が2万石で入城し、地元では善政を敷いた名君として慕われ、養蚕や漆器産業を奨励したほか、儒学者・藤原惺窩を庇護して儒学の普及にも尽力しました。現在も残る壮大な総石垣は、この広秀の時代に穴太衆の手によって築かれたと考えられています。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した広秀は、東軍の鳥取城攻めに加わりながらも城下に放火した責を問われて自刃を命じられ、竹田城もこの年に廃城となりました。以来、天守も建物もすべて失われましたが、総石垣の遺構だけが山上に残り、今では雲海に浮かぶ姿から「天空の城」「日本のマチュピチュ」として知られる屈指の絶景スポットとなっています。

山上に広がる竹田城跡の総石垣群と但馬の山並み
本丸跡から見下ろす総石垣の遺構。天守も建物もない分、穴太衆が積んだ石垣そのものの迫力がよくわかる。

竹田城は幕末を経ずに眠りについた城

竹田城はこれまで現地取材で紹介してきた幕末の藩の居城とは異なり、慶長5年(1600年)の廃城以来、江戸時代を通じて城として使われることはありませんでした。そのため幕末の動乱と直接結びつく逸話は残っていませんが、この竹田城から南へ車で30分ほどの生野(現在の朝来市生野町)では、幕末史にその名を刻む事件が起きています。石垣の城を歩いたあと、その舞台となった生野銀山へと足を延ばしました。

生野銀山とは——幕府を支えた「銀山王国」

生野銀山は平安時代の大同2年(807年)に発見されたと伝わる日本有数の鉱山で、戦国時代には山名氏・織田氏・豊臣氏と支配者を変えながら開発が進みました。江戸時代には幕府の直轄領(天領)として代官所が置かれ、佐渡金山・石見銀山と並ぶ幕府の重要な財源となります。明治以降も官営鉱山として近代化が進められ、平成19年(2007年)に閉山するまで日本の鉱業を支え続けました。現在は坑道の一部が観光施設として公開されており、江戸時代から近代までの採掘の歴史を間近に見ることができます。

生野銀山の入口に立つ史跡生野銀山の石柱と門
「史跡生野銀山」の石柱が立つ入口。奥の門をくぐると、代官所跡や坑道跡が広がるエリアに入る。

幕末の生野——維新の魁となった「生野義挙」

生野は江戸幕府の直轄領(天領)として代官所が置かれた土地で、特定の藩が治める城下町ではありませんでした。しかし文久3年(1863年)10月、この生野代官所を舞台に幕末史に残る事件が起こります。同年8月に大和で挙兵した天誅組はすでに壊滅していましたが、その復讐を果たすべきだとする強硬派の主張により、公家・沢宣嘉を主将に、平野国臣ら勤皇の志士たちが生野での挙兵を決行しました。10月12日未明、志士たちは無抵抗のまま生野代官所を占拠。北垣晋太郎(後の北垣国道、京都府知事)らが唱えた「農兵論」に呼応し、その日の正午には但馬の農民およそ2000人が生野の町に集まったと伝えられています。しかし翌13日には出石藩姫路藩豊岡藩の追討軍が出動し、同日夜には肝心の主将・沢宣嘉が解散派とともに本陣から脱出。頼みの主将に見捨てられたと知った農民たちは激高し、「偽浪士」と罵って志士たちを襲うまでになりました。挙兵はわずか3日で瓦解し、多くの志士が妙見山で自刃するか、農民の手にかかって落命。指導者の一人・平野国臣は捕らえられ、翌年の禁門の変の際に京都・六角獄舎で殺害されています。維新の先駆けとして、彼らの行動は回天を成就するには少し早すぎたのかもしれません。それでも生野の人々はこの事件を「生野の義挙」と呼び、昭和15年(1940年)には代官所跡に「生野義挙碑」が建立され、その功績は「維新の魁(さきがけ)」という言葉とともに語り継がれています。

生野代官所跡に立つ生野義挙碑の説明板
代官所跡に立つ「生野義挙碑」の説明板。「生野の義挙は維新の魁という言葉が伝わっています」と記されている。

現地を歩いて感じたこと

竹田城の石垣は、建物が何もないぶん、かえって石そのものの迫力が伝わってきます。雲海の名所として知られていますが、晴れた日でも山並みを縫うように延びる石垣群は圧巻で、まさに「天空の城」の名にふさわしい眺めでした。一方の生野銀山は、ひんやりとした坑道に足を踏み入れると一気に空気が変わり、江戸時代の鉱夫たちの労苦がしのばれます。代官所跡の静かな一角にひっそりと立つ「生野義挙碑」の前に立つと、わずか3日で潰えた志士たちの挙兵が、華々しい成功ではなく苦い挫折として歴史に刻まれていることに、かえって強い印象を受けました。同じ但馬の地で、廃城から260年以上を経た石垣の城と、維新を数年後に控えた志士たちの早すぎた蜂起——時代の異なる二つの現場を一日で歩けたことは、貴重な経験になりました。

生野銀山の坑道内部を歩く人物
ひんやりとした坑道内部。江戸時代から採掘が続けられてきた歴史の重みを肌で感じる。

アクセス(所在地)

竹田城跡は兵庫県朝来市和田山町竹田字古城山169にあります。JR竹田駅から徒歩約40分(登山道)、または駅からの登山バスも利用できます。

生野銀山は兵庫県朝来市生野町小野33-5にあります。JR生野駅から車で約10分です。竹田城跡からは車で約30分の距離です。

まとめ

竹田城跡は戦国末期に赤松広秀が築いた総石垣の城で、慶長5年(1600年)の廃城以来、幕末とは縁のないまま静かに眠り続けてきました。しかしそこから車で30分ほどの生野では、文久3年(1863年)に平野国臣や沢宣嘉ら勤皇の志士たちが但馬の農民とともに代官所を占拠する「生野の変」が起こり、わずか3日で瓦解しながらも「維新の魁」として語り継がれています。時代の異なる二つの史跡を訪ねることで、幕末という激動の時代がどのような土地の記憶の上に成り立っているのかを、あらためて実感できました。各藩の詳しい歩みは全藩情報もあわせてどうぞ。

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