【現地取材】世界遺産・国宝姫路城を歩く——最後まで忠節を貫き朝敵となった姫路藩

播磨国姫路(現在の兵庫県姫路市)にそびえる姫路城は、白漆喰の美しい外観から「白鷺城」とも呼ばれ、日本初のユネスコ世界文化遺産・国宝五城のひとつとして知られています。江戸時代には酒井家15万石の姫路藩の居城となり、幕末には最後まで徳川家への忠節を貫いたことで朝敵とされるという激動を経験しました。ちょうど世界遺産登録30周年の記念幕がかかる中、実際に姫路城を歩いてきました。

目次

姫路城とは——白鷺城の名を持つ国宝五城

姫路城の起源は南北朝時代の正平元年・貞和2年(1346年)に赤松貞範が築いた砦にさかのぼるとされ、戦国時代には黒田氏、そして羽柴(豊臣)秀吉による改修を経ています。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、徳川家康の女婿である池田輝政が入城すると、以後9年の歳月をかけて現在の姫路城の原型となる大規模な城郭が築き上げられました。大天守と3つの小天守を渡櫓で結ぶ「連立式天守」と呼ばれる構造は他に類を見ず、白漆喰総塗籠造の優美な外観から「白鷺城」の愛称で親しまれています。昭和6年(1931年)に天守群が国宝に指定され、平成5年(1993年)には法隆寺とともに日本で最初のユネスコ世界文化遺産に登録されました。

間近で見上げる姫路城天守群
間近で見上げる姫路城の天守群。幾重にも重なる破風が生み出す造形美は圧巻。

幕末の姫路藩——最後まで貫いた忠節ゆえの朝敵

江戸時代の姫路城には譜代の名門・酒井家15万石の姫路藩が入り、明治維新を迎えました。幕末の藩主・酒井忠績は幕府の大老となって勤王派の制圧に力を振るいましたが、ほどなく蟄居。弟で次の藩主となった忠惇は老中となりますが、鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜に随行し大坂退去にも同道したため、戊辰戦争では姫路藩は会津藩桑名藩と並んで朝敵の名を受け、新政府軍の討伐対象とされてしまいます。慶応4年(1868年)1月17日、藩主不在のまま在国の家臣が無血開城し、姫路城は岡山藩に占領されました。その後、慶喜の江戸城無血開城にならい忠績・忠惇も新政府軍に降伏しますが、忠績が徳川家臣としての立場にこだわる嘆願書を提出したことで事態は複雑化。5月20日、忠惇は蟄居し、分家から迎えた酒井忠邦が藩主となって15万両を献上することでようやく藩の存続が許されました。藩内では佐幕派の粛清も行われ、明治元年(1868年)11月には河合屏山の進言により、諸藩に先駆けて版籍奉還の建言書を提出しています。

國寶姫路城と掲げられた門の扁額
「國寶姫路城」と刻まれた門の扁額。国宝指定は昭和6年(1931年)にさかのぼる。

現地を歩いて感じたこと

訪れた日はあいにくの曇り空でしたが、白漆喰の壁はそれでも十分に美しく、松の庭園越しに見える天守群には風格が漂っていました。ちょうど世界遺産登録30周年(2023年12月11日)を祝う記念幕が掲げられており、多くの観光客で賑わっていました。城内の案内板に描かれた城下町の俯瞰図を見ると、内堀・中堀・外堀を幾重にも巡らせた広大な縄張りの規模に改めて驚かされます。最後まで徳川家への忠節を貫いた末に朝敵とされた姫路藩の苦しい立場を思うと、この美しい天守群もまた違った表情を見せてくれるようでした。

姫路城下町の俯瞰図が描かれた案内板
城下町の俯瞰図が描かれた案内板越しに見える姫路城天守群。

アクセス(所在地)

姫路城は兵庫県姫路市本町68番地にあります。JR姫路駅から徒歩約20分です。

まとめ

姫路城は池田輝政が築き上げた連立式天守を誇る、日本を代表する国宝・世界遺産の城です。幕末には藩主・酒井忠績、忠惇のもとで徳川家への忠節を貫いた結果、朝敵とされるという苦難を味わいながらも、藩の存続を果たしました。白鷺城と呼ばれる優美な姿の奥には、そうした激動の歴史が刻まれています。各藩の詳しい歩みは全藩情報もあわせてどうぞ。

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