【現地取材】本佐倉城跡を歩く——下総千葉氏の巨城と、佐倉藩・堀田正睦への道

幕末に開明派の老中を輩出した下総の佐倉藩——その歴史をさかのぼっていくと、一つの巨大な「土の城」に行き着きます。本佐倉城(もとさくらじょう)です。戦国時代に下総を治めた名門・千葉氏の本拠であり、国の史跡に指定されています。草に覆われながらも壮大な遺構をとどめるこの城跡を、実際に歩いてきました。

目次

本佐倉城とは——下総千葉氏の巨城

本佐倉城は、十五世紀後半、下総国を治めた千葉氏によって築かれたと伝えられます。以後、戦国時代を通じて、千葉氏歴代の居城として機能しました。印旛沼を望む台地の上に、いくつもの郭(くるわ)を配した大規模な城で、石垣や天守を持たない、いわゆる「土の城」です。土を削り、盛り、掘って造られたその姿は、関東の戦国の城の典型であり、当時の千葉氏の勢力の大きさを今に伝えています。

土の城の迫力

実際に歩いてみると、この城が「土でこれほどのものが造れるのか」と驚くほどの規模であることがわかります。郭と郭を隔てる深い空堀、見上げるような高さの土塁、そして敵の侵入を阻む複雑な虎口(こぐち)——。石垣の城とはまた違う、土そのものが生み出す力強さがそこにはありました。緑に覆われた尾根道を歩けば、戦国の兵たちがこの地形を駆けめぐった時代へと、自然と想像がふくらみます。

本佐倉城跡の土塁に挟まれた小道。青空が広がる
郭をめぐる土塁のあいだを縫う小道。石を使わず、土を盛り削って築かれた「土の城」の迫力が伝わってくる。

千葉氏の滅亡と、城のその後

戦国の世に栄えた千葉氏でしたが、その運命は天下統一の波のなかで大きく傾きます。天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、北条方についた千葉氏は所領を失いました。徳川家康が関東に入ると、本佐倉城もやがて役割を終え、廃城となっていきます。戦国の巨城は、天下泰平の到来とともに、静かに歴史の表舞台から退いていったのです。

幕末へ——佐倉城と老中・堀田正睦

本佐倉城に代わって、近世にはほど近い佐倉の地に佐倉城が築かれ、佐倉藩の中心となりました。そしてこの佐倉藩こそ、幕末に大きな役割を果たします。幕末の藩主で老中を務めた堀田正睦(ほったまさよし)は、開国を進める立場から、日米修好通商条約の交渉にあたった開明派の重臣として知られます。戦国の本佐倉城から、近世の佐倉城、そして幕末の外交の舞台へ——この地の歴史は、時代を越えて日本の大きな転換点へとつながっていくのです。佐倉藩の歩みは全藩情報のページでも紹介しています。

本佐倉城跡の縄張図(案内板)。十の郭からなる巨大な城
本佐倉城跡の縄張図(案内板)。十の郭からなる巨大な城

【現地取材・追記】県内最大級「土の城」本佐倉城

現地の案内板によれば、本佐倉城は下総の守護千葉氏が文明年間(一四六九〜八六年)に築き、天正十八年(一五九〇年)に千葉氏が滅ぶまでの約百年、九代の当主が居城とした戦国の城です。当時の水上交通の大動脈だった印旛浦に面し、主要街道が交わる交通の要衝に築かれました。面積は約三十五万平方メートルと千葉県内でも最大級で、十の郭から構成される「土の城」――石垣を用いず、すべて土を削り盛って築いた大規模な空堀・土塁・虎口が、今も戦国の城の迫力を生々しく伝えています。千葉氏の滅亡後、近世にはこの地の中心が徳川譜代の佐倉城へと移り、その佐倉藩から幕末の老中・堀田正睦が出たことは、本文でも触れた通りです。戦国の巨城と、近世の老中の城――佐倉の地が担った歴史の厚みを感じさせます。

現地を歩いて感じたこと

本佐倉城跡は、下総の広い空の下、草原のように緑に覆われて広がっていました。かつての巨城が、いまは静かな史跡公園のように人々を迎えてくれます。派手な天守はなくとも、土塁と空堀のうねりを歩けば、戦国の緊張感と、そこに生きた人々の営みが確かに感じられました。幕末の佐倉藩の「ルーツ」を訪ねる旅としても、味わい深い場所です。

アクセス(所在地)

本佐倉城跡は、千葉県印旛郡酒々井町(しすいまち)から佐倉市にまたがる台地上にあります。最寄りは京成本線の大佐倉駅で、駅から徒歩圏内。遺構をめぐる遊歩道が整備されていますが、起伏があるため歩きやすい靴がおすすめです。

まとめ

本佐倉城は、下総千葉氏が築いた壮大な土の城で、戦国期の関東を代表する城郭の一つでした。千葉氏の滅亡とともに廃城となりましたが、その後継の佐倉城・佐倉藩は、幕末に老中・堀田正睦を輩出し、開国の歴史に深く関わります。戦国から幕末へと連なる歴史の流れを、現地の土塁の上で感じてみてください。各藩の歴史は全藩情報もあわせてどうぞ。

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