高取藩/植村家2万5千石:植村家壷 天誅組の乱の鎮圧にあたるが以降新政府に属した高取藩

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高取藩の歩み

寛永十七年(1640年)十月十九日、大番頭であった「植村家政」が、九千石から二万五千石に加増されて大名となり高取藩が立藩されました。第2代藩主「植村家貞」は万治元年(1658年)七月七日、弟の政春に三千石を分与したため、石高は二万二千石となります。さらに第3代藩主「植村家言」も貞享四年(1687年)八月二十五日に弟の政明に千石、正澄に五百石を分与したため二万五百石となりました。

高取藩/場所・アクセス・地図 植村家2万5千石:植村家壷 天誅組の乱の鎮圧にあたるが以降新政府に属した高取藩【幕末維新写真館】

9代藩主・植村家長の時代には、幕府から預かった領地が六万六千石近くにまで増え、自分の領地と合わせて十万石ほどを治めるまでになりました。家長は奏者番、寺社奉行、若年寄などの役を歴任し、幕府の政治にも深く関わっています。この功績から四千五百石を加増され、高取藩は再び二万五千石となります。10代藩主の植村家教は、儒学者の谷三山を招いて学び、尊王攘夷の考えに傾きました。これが幕末の高取藩の進む道に大きな影響を与えます。

家教のあと、植村家貴の代で植村家の血筋は絶え、幕末の3人の藩主はみな他家から養子に迎えられました。13代藩主の植村家保は、大坂湾周辺の海防の役目を果たし、文久三年(1863年)の天誅組の乱を鎮めるのにも手柄を立て、京都の警備でも働きました。そのうえで、谷三山の影響から尊王の立場をとってきた植村家は、戊辰戦争では新政府側について京都御所の警備にあたります。

※天誅組の乱では土佐脱藩「吉村寅太郎」率いる浪士隊が勤皇色の強い十津川郷士をひきつれて高取城下まで迫ったが天然の要害である高取城はこれを撃退しました。

その後は、大和芝村藩主の織田長易とともに、大和にあった旧幕府領の取り締まりを任されました。最後の藩主・植村家壺は、明治二年(1869年)六月の版籍奉還で高取藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県で職を退きました。ここに高取藩は廃藩となります。その後、高取は高取県をへて奈良県に入りました。

天誅組を撃退したのは、見出しの藩主の先代でした

文久三年八月二十六日、大砲で退けました

高取藩の幕末で最も知られた出来事は、天誅組の高取城攻撃です。奈良県公式の説明では、文久三年(1863年)八月二十六日、天誅組は高取城を攻めましたが「高取藩が用意した大砲の反撃によりあえなく敗退」しました。同じ夜、吉村虎太郎らの決死隊が夜襲をかけましたが、これも失敗しています。

天誅組の兵力は、日本大百科全書が「ほぼ1000人の郷士」としています。高取町の観光ガイドは、鳥ケ峰付近で「大砲と鉄砲で撃破」したと書いています。高取藩の兵数や双方の死傷者については、公的資料では確認できません(二次資料には、藩兵約二百人に領民を加えたという記述があります)。

ここで注意したいのは藩主です。日本大百科全書は「13代家保の1863年天誅組の蜂起にあい、来襲を撃退して、その後の追討にあたった」と書いています。撃退したときの藩主は植村家保で、当ページの植村家壷はその次の代です。家壷が家督を継いだのは明治元年閏四月(二次資料)。家壷は明治十七年に子爵となり、大正九年に没しています(二次資料)。→ 柳本藩・大和五条藩

「日本三大山城」は、奈良県と高取町が書いています

高取城は「日本三大山城」の一つとして知られます。この称号の出どころを確かめると、奈良県公式が「備中松山城、美濃岩村城とともに日本三大山城の一つ」、高取町公式も「日本三大山城の一つに数えられる」と書いています。さらに奈良県公式は「比高390mは日本一」とし、高取町公式は「日本最強の山城」との呼び声がある、と書いています。

標高は五百八十三メートル(高取町公式)。約十メートルの高石垣には古墳の石が転用されています(奈良県公式)。国史跡の指定は昭和二十八年三月三十一日(高取町公式の指定文化財一覧)、日本100名城には平成十八年に選定されました。

城が壊されたのは、明治二十三年からです

高取城は奈良県公式によれば明治六年に廃城となりました。高取町公式は、明治六年に入札があって城郭の大部分は寺院などに売却された「と思われる」とし、年表に「1890 明治23 高取城解体始まる」と記しています。廃城から解体の始まりまで十七年あいています。いま城下には植村家長屋門が残り、奈良県指定文化財(昭和三十五年七月二十八日指定)です。

薬の町は、江戸の終わりにはすでに薬を売っていました

高取は「薬のまち」として知られます。高取町公式は、大和売薬の行商がいつ始まったかは「不詳」としつつ、「江戸時代終わりごろすでに」伊勢街道沿いで売られていたと書いています。藩主が参勤のときに他藩の藩主へ薬を贈ったという話は町の観光ガイドにありますが、町の公式ページには見あたりません。

藩校は講文所、のちに明倫館と改めました(藩名・旧国名がわかる事典)。廃藩置県のあとは、日本大百科全書によれば高取県、奈良県、堺県、大阪府を経て明治二十年に再置された奈良県に入りました。→ 郡山藩

高取藩をもっと詳しく

植村家より前の高取藩:本多家の時代

高取藩は、植村家の前にもう一度存在しています。大和国を治めていた筒井順慶が亡くなったのち、豊臣秀吉は筒井定次を伊賀上野へ移し、弟の羽柴秀長に大和を与えました。この秀長の家臣本多利久が高取で一万五千石を与えられ、山城の整備と拡張を進めます。

利久の跡を継いだ本多俊政は、関ヶ原の戦いの手柄で二万五千石に加増されました(三万石とする説もあります)。その子政武は、慶長十五年(1610年)に本因坊と囲碁を打って勝ったという話が伝わる人物です。しかし寛永十四年(1637年)、政武が跡継ぎのないまま亡くなり、本多家は断絶しました。その後しばらくは幕府が城番を置く時代となり、桑山一玄や小出吉親が城を預かっています。植村家政が入ったのは、この三年後のことです。

先祖の戦国武将:主君の暗殺を二度見た植村氏明

植村氏は土岐氏の一族と称し、三河の松平氏に仕えた家で、安祥譜代と呼ばれる古参の家臣の代表的な七家の一つに数えられます。戦国時代の新六郎氏明は、家康の祖父松平清康と父広忠の二代にそば近く仕え、主君が暗殺される場に二度とも居合わせたと伝わります。続く家存は家康に仕え、織田信長との清洲同盟が結ばれるのに力を尽くしました。氏明の孫家次は家康の長男松平信康に仕えましたが、信康が自刃したため一時は家が散りぢりになりました。

高取藩初代の家政はこの家次の長男で、天正十七年(1589年)の生まれです。寛永二年(1625年)に三代将軍徳川家光付きとなり、大番頭に任じられました。寛永十年(1633年)に四千石を加えられて九千石の旗本となり、寛永十七年(1640年)にさらに一万六千石を加えられて大名となります。慶安三年(1650年)に六十二歳で亡くなりました。歴代の藩主が「家」の字を名に使っているのは、家康のもとで手柄を立てた古い家だからだといわれます。

領地のようす

高取藩の領地は大和国高市郡にあり、今の奈良県高取町にあたります。家格は譜代大名で、江戸時代を通じて植村家が治めました。

藩主家の明治以降

最後の藩主家壺は、明治十七年(1884年)の華族令で子爵となりました。その後は陵墓監として畝傍山の御陵(神武天皇陵)に仕え、従二位まで進んでいます。昭和五年(1930年)には、家壺の三男で子爵を継いだ家治が貴族院の子爵議員に選ばれました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、二万五千石のこの藩はおよそ五百九十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「高取藩」「植村家政」「植村氏」

高取藩が高取城で天誅組を退けた天誅組の変は、こちらで詳しく解説しています。
天誅組の変とは?中山忠光と吉村寅太郎が大和で挙兵し、40日で壊滅した戦いを図解でわかりやすく

場所・アクセス・地図

参考資料:Wikipedia日本語版「高取藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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