越後高田藩/榊原家15万石:榊原政敬 新政府軍に恭順するも一部の藩士は神木隊を結成し脱藩

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越後高田藩の歩み

越後高田藩は榊原氏の藩主6代の支配を経て明治維新を迎えます。戊辰戦争では当初、態度を曖昧にしていたが、官軍が迫ると隣接の天領にいた幕府側の歩兵隊(衝鋒隊:古屋佐久左衛門)を追放し恭順の姿勢を示しました。

越後高田藩/場所・アクセス・地図 榊原家15万石:榊原政敬 新政府軍に恭順するも一部の藩士は神木隊を結成し脱藩【幕末維新写真館】

その後「長岡藩」「会津藩」討伐の先鋒を命じられ東北各地を転戦しました。恭順に反対の高田藩士は脱藩し、「神木隊」を組織し「彰義隊」と行動を共にしました。神木隊はその後も東北戦争や函館戦争まで参加しています。

一方高田藩は戊辰戦争終結後に、無条件降伏した会津藩士1,742名の御預を命じられます。藩内には旧幕府側に対する同情が強く会津藩士についても丁重に扱ったと伝えられています。新政府からの給費がごくわずかであったため、藩庫から金穀を補ってまかないましたが、およそ1年半のあいだに67人が病死しています。

御預中に死亡した会津藩士の墓地は「会津墓地」と呼ばれ高田の地に現存し、今も有志の手によって護持されています。

徳川四天王・榊原家の高田藩

越後高田藩は、越後国(現在の新潟県上越市)に置かれた十五万石の大藩で、高田城を居城としました。藩主の榊原家は、徳川家康を支えた「徳川四天王」の一人・榊原康政を祖とする名門で、越後の要地を預かる有力な譜代大名でした。

恭順と、旧幕府方に走った藩士たち

戊辰戦争において高田藩は新政府軍に恭順し、北越戦争では新政府側の拠点の一つとなりました。しかし藩の方針に反発した一部の藩士は脱藩し、旧幕府方に身を投じて北越や会津で戦っています。一つの藩のなかで進路が割れた様子は、譜代大名が幕末に直面した苦悩をよく物語っています。

天守のない城と、千七百四十二人の預かり

四か月で築いた、石垣のない城

高田城は慶長十九年(1614年)三月十五日に工事が始まり、七月の上旬には完成しています。およそ四か月です。築いたのは徳川家康の六男、松平忠輝。縄張りと工事の監督は舅にあたる伊達政宗が務め、上杉景勝や前田利常を含む十三の大名が動員されました。大坂の陣が迫るなか、大坂と東北の連絡を断つ要として急がれた城でした。

そのため、この城には天守がありません。石垣もありません。全体が土塁で囲まれています。天守の代わりに建てられたのが、江戸城の富士見櫓に似た三重三階の三階櫓でした。外堀まで含めれば六十ヘクタールを優に超える大きな城郭でありながら、城のシンボルを持たない。工事を急いだ結果だと上越市は説明しています。

榊原家が高田へ来た理由

榊原家の祖は徳川四天王の一人、榊原康政です。館林、白河、姫路、村上と移り、寛保元年(1741年)に九代政永の代で高田へ入りました。以後およそ百三十年、明治まで続きます。

ただしこの移封は栄転ではありませんでした。八代の政岑は「風流大名」と呼ばれ、歌や三味線、歌舞伎といった庶民の芸能に通じた人でした。その派手な行いが咎められ、徳川吉宗から隠居と謹慎を命じられ、榊原家は姫路から高田へ移されたのです。いわゆる榊原騒動です。よく語られる高尾太夫の身請けの話は、上越市の資料では「派手な行い」とだけ記されており、それが直接の理由だと断定はされていません。

十七歳の藩主と、芸州口の敗走

幕末の当主については、系譜を正確にしておきます。榊原家13代当主(高田藩主としては5代)の榊原政愛は、11代当主(高田藩主としては3代)政令の五男で、天保十年(1839年)に兄から家督を譲られました。文久元年(1861年)に没しますが子がなく、跡を継いだ政敬は政愛の甥にあたります。父子ではありません。政敬は弘化二年(1845年)の生まれで、藩主となったとき十七歳でした。

そして慶応二年(1866年)、第二次長州征伐で彦根藩とともに芸州口の先鋒を命じられます。結果は敗走でした。装備が旧式で、近代装備の長州兵に歯が立たなかったのです。高田藩の年表も「長州遠征のため出兵して敗走し、その後、和議が成立して帰藩する」と記しています。

慶応四年、藩論はこう決まりました

上越市公文書センターの資料に、決断の過程が日付つきで残っています。慶応四年(1868年)一月二十四日、重臣会議で基本方針を決定。内容は天皇への忠勤と、徳川慶喜の赦免要請の両立でした。二月三日に勅書が届き、五日に請書を提出。十日には慶喜へ諌諍書を出しています。そして閏四月八日、新井会議で正式に謝罪しました。

一方、江戸詰の藩士八十六人が脱藩して神木隊を名のり、彰義隊に合流します。五月十五日の上野戦争で約二割が戦死し、最終的な戦死者は二十一人にのぼりました。藩は川浦で古屋佐久左衛門の軍を破り、長岡・会津征討の先鋒を命じられています。同じ藩の人間が、同じ年に上野と越後で別々に戦っていたことになります。

千七百四十二人を、五十五の寺に

本文にある会津藩士の預かりについて、記録は具体的です。

  • 受け入れは明治二年(1869年)一月十七日から二十七日にかけて
  • 人数は千七百四十二人、六隊に分けられた
  • 謹慎先は寺町の五十五か寺
  • 期間は明治三年(1870年)六月まで、およそ一年半
  • この間に六十七人が病死している

待遇が行き届かなかったためではないか、とも考えられています。新政府からの給費がわずかで、藩が金穀を持ち出して補ってなお、六十七人が死にました。明治三年、生き残った人びとは斗南藩へ引き渡されます。亡くなった人の墓地は「会津墓地」と呼ばれ、いまも高田に残って有志の手で守られています。敗れた側を一年半預かった記録が、これほど数字で残っている例はそう多くありません。

藩校ができたのは、終わる五年前でした

高田藩の藩校は脩道館といいます。開かれたのは慶応二年(1866年)。芸州口で敗れた年です。廃藩まであと五年という時点で、藩がようやく学校を建てました。藩校としては全国でもかなり遅い部類に入ります。

雁木と、瞽女と

高田を歩くと、家々の前に庇が連なっています。雁木です。豪雪の冬に往来を確保するために造られたもので、松平光長の時代から始まったと考えられています。総延長およそ十二キロは日本一。上越市はこれを「互助の精神の象徴である伝統的建造物」と位置づけています。自分の家の前の土地を通路として提供し合う仕組みだからです。

もう一つ、この町には高田瞽女がいました。目の不自由な女性が各地を巡り、唄と三味線を披露する旅の芸人です。明治の半ばには親方の家が十九軒あり、弟子を含めて八十九人が共同で暮らしていました。最後の親方となった杉本キクイが、年に三百日の旅を終えたのは昭和三十九年(1964年)のことです。

城跡のいま

三階櫓と本丸御殿は明治三年(1870年)に焼け、明治六年の廃城令で残る建物も取り壊されました。城跡は昭和二十九年(1954年)二月十日に新潟県の史跡に指定されています。いまの三重櫓は平成五年(1993年)の復元で、高さ十五メートル、木造三層三階。稲葉正通時代の「高田城図間尺」の数値をもとに、絵図と古文書を検討し発掘調査も行ったうえで建てられました。

およそ五十ヘクタールの高田城址公園には桜がおよそ四千本あり、日本三大夜桜の一つに数えられます。最初の二千二百本が植えられたのは明治四十二年(1909年)でした。公園の名は令和二年(2020年)四月一日に「高田公園」から「高田城址公園」へ改められています。

越後高田藩をもっと詳しく

藩の成り立ち—八つの家が入れ替わった城

高田城ができてから榊原家が入るまでの百三十年足らずのあいだに、高田の藩主家は何度も入れ替わりました。城を築いた松平忠輝(家康の六男)は六十万石とも七十五万石ともいわれる大大名でしたが、元和二年(1616年)に改易されます。その後、酒井家(十万石)、松平忠昌(二十五万石)と続き、寛永元年(1624年)からは結城秀康の孫にあたる松平光長が二十六万石で五十七年間治めました。

光長の時代は新田の開発や用水の開削、銀山の採掘で藩の財政が潤い、高田藩のもっとも盛んな時期とされます。寛文五年(1665年)の大雪と翌年の地震では城の本丸が崩れるなどの被害も受けましたが、立て直しました。しかし延宝七年(1679年)から天和元年(1681年)にかけて、跡継ぎをめぐる家臣団の争い(越後騒動)が起き、光長は改易となります。そのあと四年あまり高田は幕府領となりました。

貞享二年(1685年)には稲葉家(十万石)、元禄十四年(1701年)には戸田家(六万〜七万石)、宝永七年(1710年)には久松松平家(十一万石)が入り、寛保元年(1741年)の榊原家の入封で、ようやく藩主家が落ち着きました。

先祖の戦国武将—徳川四天王・榊原康政

榊原家の祖・榊原康政(1548年〜1606年)は、三河国の上野(いまの愛知県豊田市)に榊原長政の次男として生まれました。十三歳のころ、のちの徳川家康の目にとまって小姓となり、三河一向一揆の鎮圧で手柄を立てて家康から「康」の一字を与えられたと伝わります。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは敵の側面を突く働きを見せ、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉が主家の織田家から天下を奪おうとしていると非難する檄文を書いたことで知られます。天正十八年(1590年)、家康の関東入りにともなって上野館林十万石を与えられました。これは家康の家臣の中で二番目に大きい領地でした。慶長十一年(1606年)に五十九歳で亡くなっています。

領地のようす—奥州にも五万石

榊原家の十五万石は、越後国頸城郡の高田周辺だけでできていたわけではありません。資料には「奥州領五万石」の記載があり、およそ三分の一にあたる領地が遠く陸奥国にありました。廃藩置県のあと、越後の旧領は高田県・柏崎県を経て新潟県に入っています。

藩主家の子孫・明治以降

最後の藩主・榊原政敬は、戊辰戦争での働きにより明治二年(1869年)に賞典禄一万石を与えられ、明治十七年(1884年)七月八日に子爵となりました。政敬は明治二十二年(1889年)から明治三十三年(1900年)にかけて四度、伯爵への格上げを願い出ましたが、いずれも認められませんでした。大正十四年(1925年)に隠居し、婿養子の榊原政和が家を継いでいます。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、十五万石のこの藩はおよそ三千五百三十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:コトバンク「高田藩」、Wikipedia「高田藩」「榊原康政」「榊原政敬」

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