高柳藩/丹羽家1万石:丹羽薫氏 播磨三草藩へ移封のため廃藩

高柳藩 丹羽家1万石 最後の藩主 丹羽薫氏
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高柳藩の歩み

高柳藩は、江戸時代中期に越後国頸城郡高柳に存在した藩です。美濃国岩村藩5代藩主「丹羽氏音」は、幕府よりお家騒動を咎められ、二万石から一万石に知行半減の上で元禄十五年(1702年)に越後国頸城郡高柳(現在の新潟県妙高市高柳)に移封となりました。

この時丹羽氏は城主大名から無城大名へと没落しさらに参勤交代を行わない定府大名に降格となりました。その後高柳藩は播磨三草藩へ移封のため廃藩となります。

廃藩のあと—幕末の高柳

この藩については、まず場所を正しておきたいと思います。高柳藩の高柳は越後国頸城郡高柳、いまの新潟県妙高市高柳です。当サイトはこれまで「高柳藩」という別名を併記していましたが、これは「頸城(くびき)」の誤りと思われます。別の藩としての「高柳藩」はわかっていません。お詫びして訂正します。

元禄十五年(1702年)、美濃岩村藩の丹羽氏音がお家騒動を咎められて二万石から一万石に減らされ、越後高柳へ移されました。城を持てず、参勤も免除される扱いです。延享三年(1746年)に丹羽薫氏が播磨三草へ移って廃藩となりますが、実際には元文四年(1739年)に薫氏が大坂城定番となって領地が河内・播磨・美作へ移されており、その時点で越後の統治は終わっていました。

高柳村が幕末にどの領主のものだったかは、わかっていません。中頸城郡一帯は高田藩領と幕府領が入り混じっており、慶応四年七月に幕府領が柏崎県の管轄となっています。

高柳は北国街道の新井宿の近くにあります。慶応四年(1868年)二月三日、北陸道鎮撫総督から高田藩に勅書が届き、高田藩は新政府側について北越戊辰戦争に加わりました。ただし高柳村そのもので何が起きたかは分かりません。

陣屋跡は速念寺の一帯とされますが、遺構は残っていません。正直に申し上げて、この藩は幕末の手がかりが最も乏しい一つです。

もう一つの丹羽家—岩崎城の丹羽氏次

高柳に移された丹羽家は、織田信長の重臣として名高い丹羽長秀の家とは別の系統です。先祖は尾張の岩崎城(いまの愛知県日進市)を本拠とした一色丹羽氏で、丹羽氏次の代に信長、ついで織田信雄に仕え、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの前に徳川家康の家臣となりました。

この戦いでは、氏次が家康の本隊に加わって留守にしていた岩崎城を、羽柴方の池田恒興らの軍勢が攻めました。城を守った弟の丹羽氏重はわずかな兵で戦って討ち死にしますが、この足止めが、家康が長久手で羽柴方を破る時間をかせいだとされます。関ヶ原のあと、氏次は三河の伊保で一万石の大名となり、その子の代に美濃の岩村へ移りました。

お家騒動で城を失った家の幕末

岩村で城を持つ大名だった丹羽家は、五代・氏音(うじおと)のときのお家騒動を咎められて石高を半分に減らされ、越後の高柳へ移されました。城を持てず、参勤交代もしない定府大名への格下げです。その後、延享三年(1746)に所領が播磨に移され、三草(いまの兵庫県加東市)に陣屋を置いて三草藩となり、明治まで続きました。

幕末の三草藩は、慶応四年(1868)の戊辰戦争で新政府に恭順しています。小牧・長久手で家康のために弟を失った家は、最後まで江戸に屋敷を構える定府の小大名として、徳川の時代の終わりを迎えました。丹羽家の菩提寺だった妙仙寺は、のちに加東市山国に移されています。

同じころの日本—享保の改革

八代将軍吉宗 高柳藩が置かれていた享保年間、八代将軍の徳川吉宗は、幕府の財政の立て直しに取り組みました。享保の改革です。大名に石高一万石につき百石の米を納めさせる「上米の制」、町人の知恵を借りるための「目安箱」の設置、裁判の基準を定めた「公事方御定書」などが知られます。

新田と米 吉宗は新田の開発を進め、年貢の取り方も改めて、幕府の収入を増やしました。米の値段を安定させることにも力を入れ、「米将軍」とも呼ばれています。高柳藩の丹羽家のような小藩もまた、こうした改革の時代を生きました。

一度も領地に行かなかった殿様—岩村から高柳へ、丹羽家の騒動

元禄丹羽家騒動

高柳藩の丹羽家は、もとは美濃岩村藩主でした。藩主の丹羽氏音は家臣の山村瀬兵衛を側用人に取り立て、財政の立て直しを任せます。瀬兵衛は荷車や畳、自在鍵にまで税をかけ、反対する家臣三十人が徒党を組みました。幕府の評定所は瀬兵衛を忠臣とし、反対派のうち四人を斬首、一人を三宅島へ遠島、二十五人を追放としました。それでも家中を治められなかった責任は重く、氏音は越後頸城郡の高柳へ移されたうえ、閉門蟄居を命じられます。

江戸で亡くなった初代

翌年に謹慎は解かれましたが、高柳へ行くことは許されず、氏音は江戸にいたまま宝永二年(1705年)に二十八歳で亡くなりました。高柳藩の初代藩主は、一度も高柳の土を踏んでいないことになります。跡を継いだのは、同族の旗本・丹羽氏右の長男・薫氏で、氏音の死の直前に末期養子に入った人です。薫氏の母は丹波亀山藩主・松平忠昭の孫娘でした。家格は譜代です。

三草へ、そして明治

丹羽家はのちに播磨三草(いまの兵庫県加東市)へ移り、ここでも江戸に住み続ける定府の藩として、名代を巡見に出して治めました。三草陣屋の跡には三草川沿いの松並木と、武家屋敷風の旧尾崎家住宅が残っています。幕末の藩主・丹羽氏中は慶応四年(1868年)二月に勤王の誓書を出し、新政府に軍資金を差し出しました。氏音と薫氏の墓は、いまは杉並区の海雲寺にあります。

領地を見なかった殿様の藩

雪深い頸城の村々にとって、殿様は名前だけの存在だったかもしれません。家臣どうしの争いの責任をとって移され、その土地を見ることなく亡くなった若い藩主。高柳藩は、江戸の評定所の判断ひとつで、殿様と領地の関係がどれほど遠くなりうるかを示しています。

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