安房勝山藩の歩み
安房勝山藩は現在の千葉県安房郡鋸南町勝山に藩庁を置いた藩です。いくつかの大名家を経て酒井氏(若狭小浜藩分家)が藩主となり、明治維新まで9代にわたって存続しました。安房勝山藩の石高は一万二千石で、所領の一部は越前国や上野国にも存在しました。
幕末の安房勝山藩は幼少の藩主のもとで藩内が「佐幕派」と「尊皇派」に分裂し「戊辰戦争」に突入しました。旧幕府軍の遊撃隊(人見勝太郎)と請西藩藩主「林忠崇」「伊庭八郎」らの軍が房総方面攻略に進出すると一部の藩兵はこれに参加しました。
しかし、最終的に勝山藩は新政府軍に恭順し、木更津に出兵して旧幕府軍と交戦しています。明治元年(1868年)十月には所領の再編が行われ、上野国群馬郡の飛び地領を没収の上で安房国平郡内に替地が与えられました。
明治二年(1869年)五月には藩名を「加知山藩」と改称しました。越前勝山藩および美作勝山藩(真島藩に改称)との同名回避のためとされています。明治四年(1871年)七月、全国一斉の「廃藩置県」により「加知山県」となり、同年十一月には「木更津県」に併呑されました。
三十一人を差し出し、二人が腹を切って藩を救いました
小浜酒井家の分家です
酒井氏は酒井広親の子の代で二つに分かれます。長子氏忠の流れが左衛門尉系で、酒井忠次から出羽庄内藩へ。次男家忠の流れが雅楽頭系で、こちらから若狭小浜藩が出ました。安房勝山の酒井家はこの小浜藩からの分家です。寛文八年(1668年)、小浜藩主酒井忠直が甥の忠国へ安房平郡と越前敦賀郡で一万石を分け、勝山に居所を営んだのが始まりでした。天和二年(1682年)に忠国が寺社奉行へ進んで五千石を加えられて一万五千石、翌天和三年(1683年)に弟へ三千石を分知して一万二千石となり、以後は幕末まで変わりません。同じ小浜からの分家に敦賀の鞠山藩があり、勝山とは兄弟分家の関係にあたります。庄内の酒井家とは系統が別で、遠い縁でしかありません。
鯨と、百姓一揆と
勝山の暮らしを支えたのは海でした。醍醐新兵衛家は関東における近世捕鯨の祖とされ、代々名主を務めて藩から苗字帯刀を許されています。七代定香は加知山神社へ大絵馬を奉納し、八代定緝は蝦夷地の開拓にも関わりました。板井ケ谷の弁天境内にある鯨塚は、鯨漁が終わるたびに出刃組が感謝と供養のために建てた石宮の群れです。一方で明和七年(1770年)には勝山藩西領騒動が起こり、忍足佐内という人物が指導者として名を残しました。鯨と一揆、この二つがこの藩の江戸時代です。
十一歳の藩主と、留守居たちの決断
最後の藩主酒井忠美は安政五年(1858年)の生まれで、万延元年(1860年)に三歳で家督を継ぎました。戊辰戦争のとき、まだ十一歳(数え)で江戸にいました。藩政を預かっていたのは留守居の岡田文左衛門らで、家老の酒井勇雄は蝦夷地へ出張していて不在でした。慶応四年(1868年)閏四月七日、藩は官軍へ勤王の証書を出したうえで、領内に戦火が及ぶことを避けるため、請西藩主林忠崇の義軍へ福井小左衛門ら三十一名を半ば脱藩というかたちで差し出します。どちらにも顔が立つようにした、苦しい選択でした。
箱根山崎で、三十一人のうち十五人が死にました
五月二十六日の箱根山崎の戦いで、勝山の三十一名は最前線の第一軍に置かれました。戦死十五、負傷十、行方不明二。半数が失われた計算になります。そして六月十二日、福井小左衛門と楯石作之丞の二人が佐貫の三宝寺で腹を切りました。藩を救うためです。介錯は藩士の平井名実衛が務めました。藩そのものは最終的に新政府へ恭順し、木更津へ出兵して旧幕府軍と戦っています。差し出した三十一人と、恭順した藩と、その両方が同じ年の出来事でした。
明治二十三年(1890年)六月十二日、切腹からちょうど二十二年目の日に、妙典寺へ義士の碑が建てられました。篆額の「視死如帰」は、かつて彼らを迎えた遊撃隊副指揮官の人見勝太郎が書いています。死を見ること帰するが如し、という意味です。旧幕府側で戦った人間が、明治政府に仕えたのちに、その筆で碑の題字を書きました。
藩が消える三年前に開かれた学校
藩校育英館が勝山に開かれたのは明治元年(1868年)十月、藩儒の野呂道庵が中心になりました。士族の子弟だけでなく平民にも門戸を開いています。版籍奉還による中断をはさみ、廃藩置県で閉じました。加知山神社の境内には、いまも野呂道庵の寿蔵碑が立っています。
勝山城と、いま残るもの
八幡山の勝山城は平安時代末の築城と推定され、安西氏によるものと伝えられます。石橋山に敗れた源頼朝を安西氏が出城に迎え入れたという伝承があり、のちには里見水軍の拠点となって正木安芸守輝綱が城主を務めました。廃城は元和八年(1622年)、内藤清政が入って麓に陣屋を築いたときです。いまは曲輪・土塁・堀切・虎口が確認でき、頂上に八幡神社があります。陣屋跡は港通りの片側が堀跡で、その南側一帯。陣屋井戸が残っています。北隣の大黒山に建つ天守風の展望台は城跡ではありません。その大黒山には、捕鯨の祖である醍醐新兵衛の墓があります。
安房勝山藩をもっと詳しく
酒井家の前に、内藤家の勝山藩がありました
慶長19年(1614年)、安房の里見忠義が改易されると、館山藩領の接収にあたった内藤政長に勝山の地が与えられました。元和8年(1622年)には内藤清政が3万石で勝山に入り、勝山城の麓に陣屋を構えます。清政は翌年に跡継ぎのないまま早世し、弟の正勝が継ぎましたが、いったん所領を除かれ、寛永3年(1626年)に2万石で再び勝山に入りました。その正勝も寛永6年(1629年)に早世し、2歳の嫡子重頼は5000石の旗本とされて、勝山の藩はいったん途絶えます。重頼はのちに大名に返り咲き、その家は信濃の高遠藩主として幕末まで続きました。酒井家の勝山藩が始まるのは、それから40年ほど後のことです。
石高の半分以上は越前にありました
寛文8年(1668年)に小浜藩から分けられた最初の1万石は、安房国平郡が4500石、越前国敦賀郡が5500石でした。安房の藩でありながら、石高ではむしろ越前のほうが大きかったのです。越前の領地は、敦賀の野坂に置いた代官所が治めました。天和2年(1682年)の5000石の加増は安房国平郡と上野国群馬郡に与えられ、翌年の分知を経て1万2000石に落ち着きます。安房・越前・上野の3か国に領地が散らばる藩でした。
明治元年(1868年)の領地替えでは、安房国内の領地がすべて入れ替わり、上野国群馬郡の飛地もなくなりました。一方で越前の飛地は廃藩まで残り、廃藩後に木更津県から敦賀県へ引き渡されています。
新潟の寺に移された酒井家の門
新潟県南魚沼市にある関興寺の総門は、安房勝山藩酒井家の門として200年以上前に建てられたと伝わるものです。この門はもともと群馬県の箕郷町(いまの高崎市)にあり、平成21年(2009年)に関興寺へ寄付されて移されました。かつては瓦葺きでしたが、いまはトタン屋根に変わっています。勝山藩は上野国群馬郡に飛地を持っていましたが、門がいつ、どのような経緯で箕郷にあったのかはわかっていません。
爵位を返上した最後の当主の家
最後の藩主・酒井忠美は、明治12年(1879年)に嫡男の忠勇へ家督を譲って隠居しました。忠勇は明治17年(1884年)の華族令で子爵となりますが、明治30年(1897年)、偽造手形を使った罪で起訴されたことにともない爵位を返上しています。忠美自身は大正12年(1923年)3月13日に66歳で亡くなりました。戊辰戦争のとき11歳だった藩主は、関東大震災のおよそ半年前まで生きたことになります。
軍役から見た規模
慶安2年(1649年)の軍役規定とされるものでは、1万石あたり235人を動員するのが目安とされます。勝山藩の1万2000石に当てはめると約282人、十人単位に丸めると280人ほどです。ただしこの規定は案にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあります。戊辰戦争で林忠崇の軍に加わった31人は、この目安の1割あまりにあたります。
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本家については小浜藩、同じ小浜からの分家については敦賀藩(鞠山藩)、勝山を離れた内藤家のその後については高遠藩のページをご覧ください。
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現地取材
【現地取材】網戸の東漸寺と木曽義昌 ― 幕末に藩がなかった土地は、十手が仕切っていました
千葉県旭市。十年で消えた網戸藩、椿海へ水葬された木曽義昌、そして藩のない土地を仕切った飯岡助五郎。
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