赤沼藩(赤松藩)の歩み
内藤正勝は武蔵国比企郡をはじめ、常陸国・下総国・上野国・上総国などで五千石を領していました。元禄六年(1693年)十一月二十八日、正勝は大坂定番に任じられたため、新たに摂津国や河内国において一万石を加増されて諸侯に列し、ここに赤沼藩を立藩しました。
しかし正勝は翌年八月七日に大坂で死去し、後を子の正友が継ぎました。正友は元禄十六年(1703年)に領地を信濃国佐久郡岩村田に移されたため(岩村田藩)、赤沼藩は廃藩となりました。
廃藩のあと—幕末の赤沼
赤沼は武蔵国比企郡、いまの埼玉県比企郡鳩山町赤沼です。
この藩は成立からして慌ただしいものでした。元禄六年(1693年)十一月に内藤正勝が大坂定番となって一万石を加増され大名になりますが、翌元禄七年八月、赴任先の大坂で亡くなっています。在任わずか八か月でした。おそらく赤沼の地を治めた実感すらなかったはずです。二代の正友は居所を常陸の高森へ移し、元禄十六年(1703年)に信濃岩村田藩へ移って廃藩となりました。
幕末の鳩山町域は領主が細かく分かれています。赤沼村は岩槻藩領、須江は前橋藩領で、そのほかは複数の旗本領と江戸近郊の藩領に分かれていました。明治二年、藩領以外は韮山県に入り、その後は入間県・熊谷県を経て埼玉県になります。
この地域の幕末といえば慶応二年(1866年)六月の武州世直し一揆ですが、秩父郡・多摩郡・高麗郡から上野国へ広がったことは分かるものの、比企郡の鳩山町域がどう巻き込まれたのかはわかっていません。
赤沼の陣屋跡についても、遺構や石碑があるという情報を見つけられませんでした。この土地の見どころはむしろ古代のほうで、武蔵国分寺の瓦を焼いた赤沼古代瓦窯跡があります。
赤沼を出た内藤家の、その後—信濃岩村田藩
赤沼藩は十年ほどで消えましたが、内藤家はその後も大名として続きました。元禄十六年(1703)、二代の正友は信濃国佐久郡に移され、岩村田に陣屋を置きます。ここから明治まで、内藤家は岩村田藩主として佐久の地を治めることになります。所領はその後も摂津・河内に移されたり佐久に戻されたりと、たびたび入れ替わりました。
江戸後期の六代藩主・内藤正縄(まさつな)は、天保の改革で知られる老中・水野忠邦の実の弟です。伏見奉行を務めた功で、陣屋しか持たない大名から「城主格」へと家の格を上げました。これを受けて岩村田では城を築く計画が進められましたが、完成しないまま明治を迎えています。
最後の藩主・内藤正誠(まさのぶ)は、日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行と幕府の要職を歴任した人でしたが、戊辰戦争では新政府軍に従い、宇都宮城の戦いや北越戦争に兵を出しました。大坂定番の加増で大名になったばかりの内藤正勝が赤沼で一万石を得てから、百七十年あまり後のことです。
岩村田の陣屋跡に残っていた蔵は、一時は中嶋公園に移されていましたが、いまは解体されています。歴代藩主の墓は東京の青山霊園にまとめられています。
同じころの日本—元禄の大地震
元禄十六年の地震 赤沼藩が置かれていた元禄年間の終わり、元禄十六年(1703)十一月二十三日の夜、関東地方を巨大な地震が襲いました。元禄地震です。震源は相模湾の沖とされ、小田原の城下は大きな被害を受け、房総半島の沿岸は大津波に襲われました。
地震と幕府 この地震で江戸でも多くの建物が倒れ、火事が起きて多くの死者が出ています。その四年後には宝永の大地震と富士山の噴火が続き、将軍綱吉の晩年は大きな災害の続く時代となりました。赤沼藩の内藤家が信濃の岩村田へ移ったのは、ちょうどこのころのことです。
赤沼藩をもっと詳しく
藩主・内藤家のなりたち
赤沼藩の内藤家は、徳川家康に仕えた内藤忠政の四男・内藤正次(政次)に始まる家です。正次は書院番をつとめたのち、四代将軍となる徳川家綱の傅役(養育係)を任された人物でした。知行地は常陸国信太郡、武蔵国大里郡、下総国香取郡、上総国長柄郡などに散らばっていましたが、寛文四年(1664年)に武蔵国比企郡で二千五百石を加増されて合計五千石となります。比企郡赤沼村が内藤家の知行地になったのは、このときです。
正次の家を継いだのが、実の甥で婿養子となった内藤正勝です。正勝は家綱の小姓として仕え、家を継いだあと上野国新田郡・山田郡で千石を加増され、御書院番頭や御留守居を歴任しました。元禄六年(1693年)、大坂定番に任じられた際に摂津国・河内国の七郡で一万石を加えられ、大名となります。
二代・正友の代の所領の組みかえ
正勝が亡くなったあと、元禄七年(1694年)十月六日に子の正友の家督相続が認められました。このとき大坂周辺の領地は取り上げられ、常陸国の信太・真壁・那珂郡、下総国香取郡、上総国長柄郡、武蔵国の大里・入間・比企郡、上野国山田郡という、五か国九郡にまたがる所領に組みかえられています。同じ年の十二月十一日に領知朱印状が出され、元禄十年(1697年)に正友は初めて領地へ入る許しを得ました。なお『角川日本地名大辞典』によれば、赤沼村は元禄十五年(1702年)に幕府領になっています。
「赤松藩」という呼び名と「高森藩」説
江戸幕府がまとめた系譜集『寛政重修諸家譜』は、正勝の居所を「武蔵国比企郡赤松村」と書いています。ところが赤松村という村はどこにあるのか分からず、事典類では長く「赤松藩」の名で載せられてきました。二十世紀の終わりに、研究者の山中清孝によって「赤松村」は赤沼村のことだと明らかにされ、いまは赤沼藩と呼ばれるようになっています。
また、二代・正友の時代に常陸国の高森村(いまの茨城県桜川市高森)に陣屋を構えて移ったとする説があり、この時期を「高森藩」として扱う本もあります。高森村には、もともと土浦藩の飛び地を治める陣屋があり、内藤家がこれを引き継いだとされます。ただし資料によって書き方が違い、高森への移転がいつで、どこまで確かなのかははっきりしません。高森陣屋は内藤家の時代を最後になくなり、陣屋跡・陣屋堀といった地名が残っているといわれます。
岩村田への移封
元禄十六年(1703年)八月十四日、正友は信濃国岩村田への移封を命じられ、関東に散らばっていた領地は佐久郡の二十七か村にまとめられました。正友はこのとき自身も大坂定番をつとめていて、新しい領地に全三十七か条の法度(領内のきまり)を出しています。正友は正徳元年(1711年)に四十九歳で亡くなり、長男の正能が早くに亡くなっていたため、次男の正敬が跡を継ぎました。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万五千石(一万六千石とする資料もあります)のこの藩はおよそ三百五十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「赤沼藩」「内藤正友」「岩村田藩」


