田中良助 宛(借金借用の手紙)

田中良助 宛(借金借用の手紙)

原文
一、金子弐両也。右者下拙儀讃州地方ニ罷越候ニ付、金子入用ニ付借金候事実正ニ候。返済之儀当暮限壱割五歩之利足を加、元利共必然皆済可致、仍之借用始末如件候。文久辛酉歳十月十四日坂本龍馬良助殿
現代文
一、金子2両私は讃岐(香川県)地方に行くので、お金が必要となりましたので貸して頂きたいのです。返済は今年の暮れまでに、一割五分の利息を付けて、元利金ともども返済致します。文久元年10月14日坂本龍馬良助殿(田中良助は坂本家の領地の地組頭)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「讃岐(香川)へ行くので二両を貸してほしい。暮れまでに利息一割五分をつけて元利とも必ず返す」という、正式な借用証文の体裁をとった手紙です。日付は文久元年(一八六一)十月十四日と明記されており、龍馬がまだ土佐にいた脱藩前の、たいへん貴重な一通です。剣術修行や見聞のために各地を動いていた青年期の龍馬の姿が見えてきます。

宛先「田中良助」とは

田中良助(たなか りょうすけ)は、坂本家の領地であった才谷(さいたに)の地組頭をつとめた人物で、龍馬とは狩りや鉄砲を通じて親しかったと伝わります。歴史に名を残す志士ではなく、龍馬の郷里での素顔を知る間柄でした。

この手紙が書かれたころ

文久元年の龍馬は二十代半ば。江戸での剣術修行を経て、土佐と各地を行き来していました。まだ歴史の表舞台に立つ前の、一介の青年剣士としての龍馬です。この前年には大老・井伊直弼が暗殺された桜田門外の変(万延元年・一八六〇)が起き、攘夷の嵐が吹き荒れて幕府の権威が揺らぎ始めていました。時代が大きく傾き出した時期です。この年の八月、武市半平太が土佐勤王党を結成し、土佐も勤王の熱に包まれます。龍馬もその渦に加わり、やがて脱藩して天下へ飛び出していくことになります。

剣の修行に出る前の、二両の借用証文

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』はこの証文を文久元年十月十四日のものとして収めています。原本の年記は「文久辛酉歳」で、辛酉は文久元年にあたります。讃岐の方へ出かけるので二両を借りる、返済は年の暮れまで、一割五分の利息を付けて元利とも必ず返す—という、きちんとした形式の借用証文です。

貸したのは、高知の北の柴巻に住んでいた田中良助でした。高知県立坂本龍馬記念館の説明では、龍馬が剣術の修行で讃岐の丸亀方面へ出るときの借金で、証文はいま高知県立歴史民俗資料館に寄託されています。文久元年の十月といえば、龍馬が武市半平太の土佐勤王党に加わって間もないころで、翌年の三月には土佐を脱藩します。脱藩の半年前、まだ藩の外へ出る道を探していたころの一枚です。当サイトの原文は「讃州地方エ罷越ニ付」となっていましたが、宮地の本文に合わせて「讃州地方ニ罷越候ニ付」に直しました。

同じころの日本と土佐——文久元年

世の中では 文久元年(1861)は、開国から間もない日本が揺れ続けた年でした。対馬ではロシア軍艦が島の一部を半年近く占拠し、江戸では外国人を狙った襲撃が続きます。五月には水戸の浪士たちが高輪の東禅寺にあったイギリス公使館を襲いました。幕府は和宮の降嫁を進め、朝廷との結びつきで権威を立て直そうとしていました。

土佐では 参政・吉田東洋の改革が進む一方、八月には武市半平太が江戸で土佐勤王党を結び、龍馬も加わります。まだ脱藩する前の龍馬は、土佐の郷士として城下に暮らし、借金の算段も身近な暮らしの一部でした。翌文久二年三月、龍馬は土佐を出て脱藩します。

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