清井権二郎 宛

清井権二郎 宛

原文
愈々御安全之由、奉賀入候。然バ銭之議御申越被下候得共、此節一向ニ銭切ニ而困入申候。此間之中ニ田舎より登候ハバ、其節差上可申候。(不明)五月廿五日坂本龍馬清井権二郎殿
現代文
いよいよご安全なようで、謹んでお祝い致します。しかしながら、お金のことですが、この頃お金が無くて困ってます。近いうちに田舎から(お金が)届きましたら、その時にお渡しします。5月25日坂本龍馬清井権二郎殿(現在も不明な人物)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「ご無事で何よりです。お金の相談をいただきましたが、この頃はまったく金欠で困っています。田舎から荷が届いたら…」という、無心を丁重に断る内容の手紙です。五月二十五日付。大きな事業を動かした龍馬でさえ、しばしば金に窮していた実情が率直にあらわれています。文中には判読の難しい箇所もあります。

宛先「清井権二郎」とは

清井権二郎(きよい ごんじろう)については、詳しい経歴が現在も分かっていません。龍馬の交友の広さと、まだ解明しきれていない人間関係の一端を示す相手といえます。

この手紙が書かれたころ

海援隊という組織を率いる一方で、龍馬個人の懐は決して豊かではなく、金策に苦しむことも珍しくありませんでした。理想を追う志士の、生活者としての一面がのぞきます。志士たちの活動は資金なしには成り立たず、金の工面は誰にとっても切実な問題でした。華やかな政治史の裏には、こうした地道な現実がありました。脱藩浪士の龍馬は、藩からの俸禄に頼れない立場でした。土佐藩との関係を築き直しつつあった時期であり、資金面での苦労も続いていました。

龍馬が脱藩する前の手紙かもしれません

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』はこの一通を収めたうえで、安政年間のものと推定しています。書簡にあるのは「五月廿五日」だけで、何年かは特定できません。安政年間であれば、龍馬が江戸での剣術修業を終えて土佐へ戻り、まだ脱藩する前の時期にあたります。のちの長崎や下関の手紙とは、まったく違う時代の一通ということになります。原本は高知の個人の所蔵とされます。

中身は、金の無心を断る手紙です。銭のことを言ってこられたが、このところまったくの「銭切」で困っている、近いうちに田舎から上ってくる者があれば、そのとき差し上げる—と書いています。のちに海援隊を率いて何万両という賠償を掛け合うことになる男が、若いころには手元の銭にも事欠いていたわけです。宛名の清井権二郎がどういう人なのかは、宮地も「不明」としていて分かりません。当サイトの田中良助 宛の手紙も、龍馬の金の貸し借りにまつわる一通です。

同じころの日本と土佐——安政年間

世の中では 宮地佐一郎の推定どおり安政年間(1854〜1860)の手紙だとすれば、日本が開国へと大きく舵を切った時期にあたります。嘉永六年(1853)のペリー来航の翌年に日米和親条約が結ばれ、安政五年(1858)には大老・井伊直弼のもとで日米修好通商条約が結ばれました。これに反対した人々を厳しく処罰したのが安政の大獄で、吉田松陰らが命を落としています。

土佐と龍馬 土佐では藩主・山内容堂が吉田東洋を登用して改革を進めましたが、容堂自身も将軍の跡継ぎをめぐる争いで井伊直弼と対立し、安政の大獄のさなかに隠居を命じられました。若い龍馬は、この間に江戸へ出て北辰一刀流の千葉定吉の道場で剣を学び、ペリー来航の折には品川の警備にも動員されたと伝えられます。のちに何万両という金を動かす龍馬が、まだ一人の郷士として銭の工面に苦労していたころの一通です。

坂本龍馬の手紙を時代順に読む(一覧の5通目/全135通)

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