坂本乙女 宛(脱藩後初の手紙)
| 原文 |
| 扨も/\人間の一世ハがてんの行ぬハ元よりの事、うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。夫とくらべてハ私などハ、うんがつよくなにほど死ぬるバへでゝもしなれず、じぶんでしのふと思ふても又いきねバならん事ニなり、今にてハ日本第一の人物勝憐太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候。其故に私年四十歳になるころまでハ、うちにハかへらんよふニいたし申つもりにて、あにさんにもそふだんいたし候所、このごろハおゝきに御きげんよろしくなり、そのおゆるしがいで申候。国のため天下のためちからおつくしおり申候。どふぞおんよろこびねがいあげ、かしこ。三月廿日龍乙様御つきあいの人ニも、極御心安き人ニハ内御見せ、かしこ。 |
| 現代文 |
| さても人間のひとよは合点のいかぬは元よりの事。運の悪い者は、風呂から出ようとして睾丸をつめ割って死ぬこともあります。それに比べれば私などは、運が強くて死ぬような場所でも死なず、自分で死のうと思っても、また生きねばならんということになり、今は勝麟太郎(勝海舟)殿という人の弟子になり、かねてから思っていることに精を出しております。それゆえ40歳になる頃までは家には帰らないつもりでいることを兄さんにも相談しました。このごろはご機嫌も宜しいようでお許しを頂きました。国のため、天下のため、力をつくしております。喜んでいて下さいね。3月20日龍馬乙女様お付き合いのある人の中でも、ごく親しい人にだけは内々にお見せください。 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
脱藩後、姉・乙女へ宛てた最初の手紙とされる一通です。「運の悪い人は風呂で睾丸を打っただけでも死ぬ」という奔放な書き出しで、自分は死ぬべき場でも死なぬ強運の持ち主だと語り、いま勝海舟の弟子となって志に励んでいること、四十になるまで家に帰らぬ覚悟を打ち明けています。脱藩という大罪を犯した龍馬の、晴れやかな決意がみなぎる名文です。
宛先「坂本乙女」とはどんな人物か
龍馬の姉で、母代わりに龍馬を育てた最愛の肉親です。脱藩して罪人となった弟を案じる姉に、龍馬は自分の身の振り方と大きな志を、包み隠さず打ち明けています。
この手紙が書かれたころ
文久二年(1862)に脱藩した龍馬は、江戸で幕臣・勝海舟に弟子入りしました。斬るつもりで訪ねた相手に心服したと伝わり、以後は海軍と海運に活路を見いだしていきます。脱藩浪士から一転、時代の大舞台へ歩み出した転機の時期です。文久三年の春は、将軍家茂が上洛し、朝廷から攘夷の期限を迫られていた時期です。五月十日を期限として攘夷が約束され、その日に長州藩が下関で外国船を砲撃します。龍馬がこの手紙を書いた三月は、京都が攘夷の熱に包まれていたころでした。土佐では土佐勤王党が藩政に影響力を強め、参政・吉田東洋が暗殺されました。龍馬はその渦中に脱藩し、党とは別の道を歩み始めます。藩に縛られぬ自由な立場を得たことが、のちの活躍を可能にしました。
赦免書の交付から一か月足らず、「勝憐太郎」と書いた春の報せ
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では第七通にあたります。書面の日付は「三月廿日」だけで、文久三年という年は宮地による比定です。高知市の広報誌に載った広谷喜十郎氏の解説によれば、龍馬は同年一月十三日に勝海舟とともに幕府の順動丸で兵庫を発ち、十五日に伊豆下田へ寄港しました。翌日、海舟が下田に滞在中の山内容堂に会って龍馬の脱藩罪の赦免を願い出て許され、二月二十五日に赦免書が龍馬に交付されています。この手紙は、その交付から一か月足らずのうちに書かれた計算になります。
この手紙は京都国立博物館の所蔵品で、重要文化財に指定されています。同館は、土佐を脱藩して一年を経て、郷里の姉乙女へ初めて出した手紙と解説しています。宮地の本文では師の名が「勝憐太郎」と記されていますが、約二か月後の五月十七日付の乙女あて(宮地の第八通)では「勝麟太郎」と書き、「天下無二の軍学者」の門人となって客分のように扱われていると続けています。追って書きでは、付き合いのある人の中でも、ごく心安い人にだけ内々に見せてほしいと頼んでいます。
同じころの京都—将軍の上洛と浪士組
京都では 文久三年(1863)三月、将軍家茂は三代家光以来およそ二百三十年ぶりに京都へ上り、三月十一日には孝明天皇が攘夷を祈るため賀茂社へ行幸しました。将軍の警護を名目に江戸から送られた浪士組は、この月のうちに江戸へ呼び戻されますが、近藤勇・土方歳三・芹沢鴨らは京都に残ります。これがのちの新選組のはじまりです(新選組の年表)。
龍馬のまわりでは この年の正月、龍馬は勝海舟のとりなしで脱藩の罪を許され、勝の弟子として海軍づくりに打ち込み始めていました。乙女に宛てたこの手紙は、龍馬が「天下の勝先生」のもとで新しい道を見つけた喜びにあふれています。
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