平井かほ 宛(龍馬初恋の人への手紙)

平井かほ 宛(龍馬初恋の人への手紙)

原文
先づ〃御無事とぞんじ上候。天下の時勢切迫致し候に付、一、高マチ袴一、ブッサキ羽織一、宗十郎頭巾外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候。九月十三日坂本龍馬平井かほどの
現代文
まず、ご無事で何よりです。天下の時勢は切迫してきておりますので、1、乗馬用の馬乗袴1、下半分が広く裂けた羽織1、目鼻口以外を覆う黒頭巾他に、細身の刀大・小を一つ腰に用意して下さい。9月13日坂本龍馬平井かほどの(宛先の平井かほは平井収二郎の妹。男装の装束一式を頼んだ手紙と解されていますが、その目的は書かれていません)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「ご無事で何より。天下の時勢が切迫してきたので、馬乗袴・ぶっさき羽織・宗十郎頭巾、それに細身の大小一腰を用意してほしい」という手紙です。九月十三日付。これは男装のための装束一式で、初恋の相手とされる平井かほに「男装して共に勤皇の活動をしよう」と誘った手紙と解されています。龍馬の情熱と、女性さえも同志に誘おうとする型破りな発想が表れた一通です。

宛先「平井かほ」とは

平井かほ(ひらい かお)は土佐藩士・平井収二郎の妹で、龍馬の初恋の人と伝わる女性です。兄の収二郎は、武市半平太が率いた土佐勤王党の中心人物のひとりでした。

この手紙が書かれたころ

尊皇攘夷の熱が高まるなか、龍馬も志士として奔走し始めた時期とみられます。身近な女性まで巻き込もうとする熱量に、若き日の理想と一途さがのぞきます。文久年間は尊皇攘夷運動が沸騰し、各地で志士が立ち上がった時期です。土佐でも勤王の気運が一気に高まっていました。兄・平井収二郎ら土佐勤王党は武市半平太のもとで活動しましたが、やがて藩の弾圧を受け、収二郎は切腹に追い込まれます。時代の波に翻弄された一族でした。

勤王党が結ばれた秋の、装束の頼み

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を文久元年九月十三日のものとしています。天下の時勢が差し迫ってきたので、高マチ袴、ブッサキ羽織、宗十郎頭巾、それに細身の大小一腰を用意しておいてほしい—と平井かほに頼んだ、よく知られた手紙です。

文久元年は、武市半平太が土佐勤王党を結んだ年です。その秋に、龍馬が改まった身なりの一式を頼んでいるわけで、何か事を起こすつもりがあったのだろうと読まれてきました。宗十郎頭巾は顔を覆う頭巾で、人目を忍んで動くときに使うものです。宛先の平井かほは、土佐勤王党の平井収二郎の妹で、龍馬の初恋の人と伝えられてきました。ただしこの手紙からそこまでは読み取れません。龍馬が土佐を脱藩するのは翌文久二年の三月で、翌文久三年には兄の平井収二郎が藩の手で獄に入れられ、その年のうちに切腹させられます。宮地の本文では「ブツサキ」と書かれていて、当サイトの「ブッサキ」とは表記が違います。

同じころの日本と土佐—文久元年の秋

世の中では この年の春から夏にかけて、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬に居座り、島の一部を占拠する事件が起きていました。艦が去ったのは八月のことです。十月には、孝明天皇の妹・和宮が将軍家茂に嫁ぐため京都を発ち、中山道を江戸へ向かいます。前年の桜田門外の変で大老を失った幕府は、朝廷と結びつくことで立て直しを図っていました。

土佐では 藩政を握っていたのは参政の吉田東洋で、身分にとらわれない登用と開国寄りの改革を進めていました。これに反発する下士・郷士たちを束ねたのが、八月に江戸で結成された土佐勤王党です。龍馬もこの盟約に名を連ねました。翌年四月に東洋が暗殺され、龍馬が脱藩するのは、この手紙からわずか半年後のことです。宛名の平井かほの兄・平井収二郎も、勤王党の中心にいた一人でした。

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