角間川の戦いとは?戦死44人対0人—庄内藩が船橋の綱を切って新政府軍を破った戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすく

庄内藩二番大隊長・酒井吉之丞(了恒、玄蕃)の肖像写真

慶応4年(1868)8月13日の正午ごろ。秋田の角間川(いまの大仙市)で、仙台藩の兵が新政府軍に攻めかかりました。しかし仙台兵はまもなく崩れて逃げ出します。そのあとを追ってきた久保田藩兵を、後ろに控えていた庄内藩の兵が至近距離から撃ちすえました。わずか2時間ほどの戦いで、新政府軍は横手川に追いつめられ、多くの兵が川で命を落とします。

この日、新政府軍の戦死者は44人。一方の庄内藩側の戦死者は0人でした。「戊辰戦争で負けなかった」庄内藩の強さを、もっともはっきり示した「角間川の戦い」を、進軍図とイラストで解説します。

目次

角間川の戦いとは?ひとことで言うと

横手城を落とした2日後、庄内藩の二番大隊が角間川に集まった新政府軍を破り、横手川の船橋の綱を切って退路を断ち、大勝した戦いです。秋田戦争の中でも、新政府軍が一日でもっとも大きな損害を出した戦いでした。

日時 慶応4年8月13日(1868年9月28日)。正午ごろ〜午後2時ごろ
場所 出羽国平鹿郡角間川村(現在の秋田県大仙市角間川町)
同盟軍 庄内藩の二番大隊(隊長・酒井吉之丞)。仙台藩兵が先鋒、一関藩の6小隊も指揮下に入った
新政府軍 久保田藩・長州藩・佐賀藩・小倉藩・新庄藩などの兵
死傷者 新政府軍 戦死44人・負傷32人 対 同盟軍 戦死0人・負傷1人
結果 同盟軍の圧勝。新政府軍は大曲方面へ敗走した

なぜ角間川で戦いが起きたのか

川港の町・角間川

角間川は、雄物川の舟運でにぎわった秋田県南でいちばん大きな川港で、久保田藩の給人(家臣)が住む武家町でもありました。陸の道も集まる交通の要で、同盟軍にとっても新政府軍にとっても、どうしても押さえたい場所でした。

川船が並び米俵を運ぶ人足でにぎわう川港の町
雄物川の舟運でにぎわった川港の町・角間川(イメージ)

横手を失った新政府軍

8月11日、庄内藩は横手城を落としました(横手城の戦い)。横手を捨てた新政府軍は北の神宮寺に本営を移し、小倉藩・佐賀藩・久保田藩・新庄藩の兵を角間川に置いて、同盟軍の北上を食い止めようとします。新庄藩兵を率いていたのは長州藩の三原昌助で、角間川の旧家・北島家を宿にして一日中軍議を開いていたと伝わります。

一方の庄内藩二番大隊は、横手の後始末を一番大隊に任せ、12日に横手を出て田村新田(いまの横手市大雄)に進みました。一関藩の峰岸兵左衛門の6小隊も、二番大隊の指揮下に入ります。

両軍の顔ぶれと兵力

同盟軍

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
庄内藩 酒井家
17万石
二番大隊(隊長・酒井吉之丞)。仙台兵の後詰めに水野郷右衛門の七番小隊を置き、仙台兵が崩れると代わって攻めかかった
仙台藩 伊達家
62万石
先鋒を申し出て正午ごろに攻撃を始めたが、まもなく敗走した
一関藩 田村家
3万石
峰岸兵左衛門の6小隊が二番大隊の指揮下に入った

新政府軍

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
久保田藩 佐竹家
20万石
敗走する仙台兵を追ったところを庄内兵に撃たれ、角間川の町へ逃げこんだ
長州藩 毛利家
36万9千石
三原昌助が新庄藩兵を率いて角間川に陣を張った
佐賀藩 鍋島家
35万7千石
長州隊が引き上げたあとも、最後まで踏みとどまって戦った
小倉藩 小笠原家
15万石
角間川の守りについた
新庄藩 戸沢家
6万8千石
城を庄内藩に落とされた新庄藩の兵も加わった
庄内藩二番大隊長・酒井吉之丞(了恒、玄蕃)の肖像写真
庄内藩二番大隊の隊長・酒井吉之丞(了恒)。のちの酒井玄蕃で、「鬼玄蕃」と恐れられた(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

両軍の条件を比べる

同盟軍 新政府軍
勢い 新庄・湯沢・横手と勝ち続け、士気が高かった 横手を捨てて退いたばかりで、多くの藩の寄せ集めだった
武器 庄内藩はスネルから買った新式の銃をそろえていた 藩によって装備にばらつきがあった
地形 南から攻め寄せた 背後に横手川があり、退く道は船橋一本だった

戦いの流れ

角間川の戦いの進軍図
角間川の戦いの進軍図。田村新田から攻め寄せた庄内藩に敗れた新政府軍は、船橋で退路を断たれた(イメージ)

正午:仙台兵が先鋒をつとめる

12日、仙台藩から庄内藩の二番大隊隊長・酒井吉之丞に、「仙台軍が先鋒となって角間川を攻めるので、庄内藩の小隊に後詰めを頼みたい」と申し入れがありました。13日の正午ごろ、仙台軍は攻撃を始めます。

ところが当時の仙台兵は、「大砲がドンと鳴ったら五里逃げる」、略して「ドンゴリ」と陰口をたたかれるほど弱いと見られていました。このときもまもなく本道の上で崩れ、逃げ出してしまいます。

逃げてくる仙台兵と、土手の陰で待ち構える庄内藩の小隊
先鋒の仙台兵はまもなく崩れたが、後詰めの庄内藩七番小隊は落ち着いて待ち構えていた(イメージ)

庄内の七番小隊、至近距離から撃つ

逃げる仙台兵を、久保田藩兵が追いかけてきました。そこへ、後詰めをつとめていた水野郷右衛門の庄内藩七番小隊が、至近距離から一斉に撃ちかけます。さらに酒井吉之丞の指揮で庄内藩の本隊が進み始めると、久保田藩兵はたまらず角間川の町の中へ逃げこみました。

川港の町の入り口で一斉に銃を放つ庄内藩兵
庄内藩の本隊が押し出し、久保田藩兵は角間川の町へ逃げこんだ(イメージ)

町に火がかかり、新政府軍は総崩れに

松平角之介の率いる七番小隊の分隊は、角間川の民家に火を放ち、町に隠れた久保田藩兵を追い出しました。新政府軍は総崩れになり、横手川を渡って北の大曲の方へ逃げようとします。渡し場には、逃げる兵と避難する住民が押し寄せました。

船橋の綱を切る

横手川には、対岸に綱を張って川船を並べ、その上に板を渡した仮の橋「船橋」がかかっていました。松平角之介は、この船橋の綱を切って退路を断ちます。新政府軍は大混乱におちいり、多くの兵が川に飛びこんでおぼれました。勢いに乗った庄内藩は、土木工事の役をつとめる兵まで戦いに加わったといいます。

船橋をつなぎとめる綱を刀で切る庄内藩の武士
松平角之介は横手川の船橋の綱を切り、新政府軍の退路を断った(イメージ)

そんななかでも、長州隊が引き上げたあと、佐賀藩の部隊だけは最後まで踏みとどまって戦いました。午後2時には戦いが終わり、庄内藩の部隊は田村新田に引き上げました。

両軍の死傷者

戦死 負傷
新政府軍 44人 32人
同盟軍 0人 1人

※数字はWikipedia「角間川の戦い」による(郡義武『秋田・庄内戊辰戦争』を出典とする)。秋田戦争で新政府軍が一日に出した損害としては、もっとも大きなものでした。

戦いのあと

略奪した仙台兵を斬った庄内藩

翌14日、庄内藩の二番大隊が角間川村に入ったとき、村の中で略奪をはたらいていた仙台藩兵を見つけ、捕らえて首をはねました。味方の兵であっても、住民から物を奪う者は許さなかったのです。村人たちはこれに大いに喜び、庄内藩士が泊まっていることを示す宿札は「略奪よけのお守り」になりました。村人たちは、こぞって庄内藩兵を泊めたといいます。

村人の家族が庄内藩の兵を家に招き入れ、握り飯を出す
庄内藩の宿札は「略奪よけのお守り」になり、村人はこぞって庄内藩兵を泊めたという(イメージ)

神宮寺の守りと、庄内軍の行き詰まり

角間川で大勝した庄内軍は、14日には角間川から雄物川の対岸をうかがいます。しかし新政府軍は副総督・沢為量の本営を神宮寺に置き、次々に着く援軍で雄物川の対岸に大きな陣地を築いていました。庄内軍は18日から神宮寺を攻めますが、落とすことはできません。秋田戦争は、ここから雄物川をはさんだにらみ合いへと移っていきます(秋田戦争とは)。

この戦いが示したもの(筆者の感想)

角間川の戦いの数字、「戦死44人対0人」は、庄内藩の強さをこれ以上なくはっきり物語っています。仙台兵が崩れても慌てず、後詰めの小隊が冷静に撃ち、本隊がすかさず押し出す。新式の銃だけでなく、部隊の動かし方そのものが、ほかの藩とはまるで違っていたのでしょう。

一方で、船橋の綱を切って退路を断つというやり方は、戦いとしては見事でも、川に追いつめられた兵や住民にとっては悲惨なものでした。角間川の古戦場には、のちに新政府軍の戦死者の墓が建てられ、毎年供養が続けられてきたといいます。

そして、略奪をした味方の兵を処刑したという話です。占領した土地の人々の心をつかむことの大切さを、庄内藩はよくわかっていました。村を焼き払った盛岡藩の大館攻め(大館城の戦い)と比べると、その違いはいっそう際立ちます。

現地を歩く ― 角間川の戦いの史跡

  • 陀仏の古戦場(戊辰之役鎮魂碑)(大仙市角間川町、川港親水公園内):角間川橋から横手川を100メートルほどさかのぼった深い淵で、激戦地となった場所。平成4年(1992)に鎮魂碑が建てられ、この戦いで亡くなった秋田藩士7人と新庄藩士3人がまつられています
  • 旧北島家住宅主屋(大仙市角間川町):長州藩の三原昌助が軍議を開き、のちに庄内藩の本陣になった旧家。町がほとんど焼けたなかで焼け残りました。梁には銃弾の跡が残ると伝わります
  • 旧本郷家住宅(大仙市角間川町、登録有形文化財):新政府軍がこの家の前の街道に大砲を据えて待ち構えたといわれます
  • 覚善寺・浄蓮寺(大仙市角間川町):この戦いで亡くなった秋田藩士や新庄藩士が弔われている寺

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参考にした資料

  • Wikipedia「角間川の戦い」「秋田戦争」(郡義武『秋田・庄内戊辰戦争』、『大曲市史』、大仙市「庄内藩の視点から 戊辰戦争と庄内藩」などを出典とする)

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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