【藩名】
鶴舞藩
【説明】
明治維新により徳川幕府が敗れ新政府が樹立されると、徳川家は江戸や全国の天領を没収された代わりに、駿河・遠江70万石を安堵されました。これのより駿河・遠江の大名は上総に移封され、浜松藩は上総鶴舞に移されて鶴舞藩を立藩しました。明治4年(1871年)、藩主「井上正直」が鶴舞藩知事として「廃藩置県」を迎え、鶴舞藩は廃藩となりました。
花房藩/西尾家3万5千石:西尾忠篤 徳川宗家の駿河移封の替地として横須賀藩から転封した西尾氏
長尾藩/本多家4万石:本多正訥 徳川家の駿河転封に伴い国替えにて立藩
桜井藩(貝淵藩)/松平家1万8千石:松平信敏 徳川宗家の駿河転封による替地として立藩
小久保藩/田沼家1万1270石:田沼意尊 徳川宗家の駿河・遠江移封に伴う替地として立藩
【場所・アクセス・地図】
鶴舞藩をもっと深く——老中が、上総の原野に城下町をつくった
鶴舞藩の藩主は井上正直ただ一人です。そしてこの人物は、つい前年まで幕府の老中でした。
老中・外国御用取扱を務めた人
井上正直は天保八年生まれ。浜松藩井上家六万石の当主として、嘉永六年のペリー来航のときにはまだ十代半ばでした。
その後の履歴は幕府の中枢そのものです。安政五年に奏者番、文久元年に寺社奉行兼帯、文久二年に老中。文久三年から元治元年にかけては外国御用取扱を兼ね、いったん退いたのち慶応元年に老中に再任されています。慶応二年には長州への二度目の遠征で将軍家茂に従い上洛しました。
開国交渉と長州征討の両方に、老中として関わっています。
慶応四年、恭順、そして移封
鳥羽伏見のあと、正直は朝廷に恭順しました。そして徳川家達の駿河入り(駿府藩)にともなって、遠江の領地を召し上げられます。
移転先は上総国。石高は六万二千石余。転封の日付は史料によって明治元年九月十五日・二十一日・二十三日と割れており、諸説あります。同時に沼津藩は菊間藩へ、掛川藩は松尾藩へ移されました。
長南の宿から、鶴舞へ
着いてみれば藩庁はありません。まず長南宿に仮本営を置き、次いで市原郡石川村の字桐木原へ移りました。
正直自身が浜松城を離れたのは明治二年一月、新領地に着いたのが二月十一日です。そして明治三年四月、藩庁・知事邸・藩士の居宅が完成しました。この地を「鶴舞」と名付けたのはこのときです。藩校克明館も建てられ、町割りも行われました。
地名としての「鶴舞」は、幕府の老中だった人物が明治になってつけた名前だということになります。
一年で終わった城下町
藩庁が完成した翌年、明治四年七月の廃藩置県で正直は免官されました。鶴舞県となり、同年末には木更津県へ統合されています。
原野を測って町を割り、藩校を建て、そこに名前をつけて、一年で藩がなくなりました。正直はのち子爵となり、明治三十七年に六十八歳で没しました。幕末に老中を務めた人物としては、長く生きたほうです。

