慶応4年(1868)5月24日、越後の寺泊の沖で、新政府軍の軍艦と、同盟軍の蒸気船「順動丸」が砲火を交えました。越後で戦われたただ一つの海戦です。撃たれた順動丸は浜に乗り上げ、翌日、積んでいた弾薬が爆発して沈みました。小さな海戦でしたが、これで越後の海は新政府軍のものになり、2か月後の新潟上陸と長岡城のふたたびの落城へとつながっていきます。
この記事では、寺泊沖海戦を、なぜ越後の海に軍艦がやって来たのか、順動丸とはどんな船だったのか、5月24日に何が起きたのか、そして海を押さえたことがその後の戦いをどう変えたのかの順に、進軍図を使ってわかりやすく解説します。長岡戦争の陰で戦われた、もう一つの戦いです。
寺泊沖海戦とは?ひとことで言うと
北越戦争のさなか、越後の海に送られた新政府軍の軍艦2隻が、寺泊の港にいた同盟軍の蒸気船・順動丸を攻撃した海戦です。順動丸は燃料の石炭がなく薪で走っていたため速さが出ず、砲弾を受けて浜に乗り上げ、乗員は陸へ逃れました。この戦いで新政府軍は越後の海を押さえ、のちの新潟上陸の足がかりを得ます。
| 日時 | 慶応4年(1868)5月24日の朝。順動丸の爆発・沈没は翌25日 |
|---|---|
| 場所 | 越後国 寺泊の沖(現在の新潟県長岡市寺泊) |
| 新政府側 | 長州藩の軍艦「第一丁卯」、薩摩藩の軍艦「乾行」 |
| 同盟側 | 旧幕府の蒸気船「順動丸」(会津藩士ら乗員約150人)。陸には会津藩兵・水戸の諸生党が駐屯 |
| 結果 | 新政府軍の勝利。順動丸は浜に乗り上げ、翌日に爆発して沈む。新政府軍は越後の海を押さえる |
なぜ越後の海に軍艦が来たのか
新潟港という武器の入り口
越後には、幕府が開港場とした新潟港がありました。外国の商人から買い入れた武器や弾薬は、この港から長岡藩や会津藩へ運ばれていきます。北越戦争を戦う同盟軍にとって、新潟は命綱でした。新政府軍の参謀・山県有朋は、陸の戦いだけでは勝ちきれないと考え、海軍を越後へ送ってほしいと求めました。
こうして、長州藩の第一丁卯と薩摩藩の乾行の2隻が越後へ向かうことになりました。2隻は福岡藩の輸送船・大鵬丸と落ち合って石炭を積み、敦賀を経て、新政府軍が押さえていた直江津の港に入ります。
日本海に軍艦を出さなかった旧幕府海軍
一方、旧幕府方には、榎本武揚の率いる強力な艦隊がありました。開陽丸をはじめ、新政府軍の艦隊よりも上の船をそろえていたのです。ところが榎本艦隊は江戸湾にとどまったままで、北越の戦いのあいだ、日本海には1隻も回されませんでした。越後の海に同盟軍の船として浮かんでいたのは、武器を運ぶために来ていた輸送船の順動丸だけでした。
順動丸とはどんな船だったのか
順動丸は、幕府がイギリスから買い入れた鉄製の外輪蒸気船です。もとは幕府の輸送船で、14代将軍・徳川家茂や勝海舟、坂本龍馬などを乗せて航海したこともあり、長岡藩主の牧野忠訓や河井継之助も乗ったことがあると伝わります。

戊辰戦争では、会津藩に貸し与えられた武器や弾薬を運ぶため、箱館を経て越後へ入りました。佐渡の相川港に泊まっていたところを同盟軍が押さえ、海戦のときは寺泊の港にいました。ただ、越後では蒸気船の燃料になる石炭が手に入らず、順動丸は薪をたいて走っていました。そのため、本来の速さを出すことができなかったのです。
両軍の船をくらべる
| 同盟軍 | 新政府軍 |
|---|---|
| 順動丸1隻(もとは幕府の輸送船) | 第一丁卯(長州藩)・乾行(薩摩藩)の軍艦2隻 |
| 鉄製の外輪蒸気船。武器や人を運ぶための船 | 大砲を積んだ戦うための軍艦 |
| 石炭がなく、薪で走るため速さが出ない | 輸送船から石炭を補給して出撃 |
| 乗員は会津藩士ら約150人。陸に会津藩兵と水戸の諸生党 | 海の上から攻め、陸には新政府軍の加賀藩・高田藩・与板藩の兵 |
5月24日、寺泊沖の戦い

出雲崎でつかんだ知らせ
直江津を出た第一丁卯と乾行は、陸の戦いを海から助けるため、海岸ぞいに北へ進みました。出雲崎に寄ったところで、寺泊の港に旧幕府方の船が泊まっているという知らせが入ります。2隻は、先に手を打って寺泊を攻めることに決めました。
順動丸を挟みうち
5月24日の朝7時ごろ、2隻は寺泊の沖に着きました。順動丸は機関を動かして港を出ます。新政府軍の記録では逃げようとしたとされていますが、味方の船と思って迎えに出たのだ、という説もあります。
港の外で待ち受けた乾行が順動丸の前をふさぎ、第一丁卯が後ろへ回りこみました。威嚇の砲撃のあと、撃ち合いが始まります。砲弾は順動丸の船首や外輪に当たり、順動丸も乾行に向けて大砲を3発撃ち返しましたが、届かずに手前に落ちました。

浜に乗り上げ、翌日に爆発
傷ついた順動丸は向きを変え、自ら浜に乗り上げました。会津藩士の一柳幾馬・雑賀孫六郎ら乗員約150人は船を捨てて上陸し、陸にいた兵の多くとともに弥彦の方へ退きます。新政府軍の2隻は順動丸を奪い取ろうと近づきましたが、岩場が多く危ないためあきらめ、沖から陣地に向けて砲撃を続けました。
陸からも、新政府軍の加賀藩・高田藩・与板藩の兵が順動丸を取りに向かいました。ところが、山に逃げていた住民を伏兵と見まちがえ、引き返してしまいます。
翌25日の昼すぎ、乾行の乗員が寺泊に上陸し、旧幕府方に手を貸した住民は罰するという触れを出しました。そして午後2時ごろ、浜の順動丸は積んでいた弾薬が爆発して沈みます。火が出たわけはわかっていませんが、敵に奪われないよう、自ら爆破したと考えられています。
海を押さえたことが変えたもの
寺泊沖海戦で、新政府軍は越後の海を押さえました。2隻の艦隊はいったん七尾へ戻って石炭を積み直したあと、佐渡の相川にも入り、そこに泊まっていた桑名藩の和船から大砲やミニエー銃を取り上げています。
その後、新政府軍はさらに軍艦や輸送船を越後へ送りこみました。そして7月25日、海から新潟の北の太夫浜に上陸し、29日には新潟町を押さえます。武器の入り口を断たれた同盟軍は持ちこたえられず、同じ29日に長岡城はふたたび落ちました。陸で河井継之助がどれほどねばっても、海を取られた時点で、北越の戦いの行方は決まりつつあったのです。

旧幕府海軍の主力は、その後もしばらく江戸湾から動かず、8月になってようやく仙台へ向かいました。仙台からは、庄内藩を助けるために千代田形などの小さな船隊を日本海側へ回しましたが、間に合いませんでした。こうして旧幕府海軍は、日本海での戦いにはほとんど加わらないまま、箱館戦争へと進んでいきます。
戦いの流れ(慶応4年)
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 5月2日 | 小千谷談判が決裂し、北越戦争が始まる |
| 5月19日 | 新政府軍が信濃川を渡り、長岡城が落ちる |
| 5月21日 | 第一丁卯と乾行が直江津に入る |
| 5月24日 朝 | 寺泊沖海戦。順動丸が砲撃を受け、浜に乗り上げる |
| 5月25日 | 順動丸が爆発して沈む |
| 5月26日 | 新政府軍の艦隊が七尾へ戻り、石炭を積み直す |
| 5月29日 | 新政府軍の艦隊が佐渡の相川に入る |
| 7月25日 | 新政府軍が海から太夫浜に上陸 |
| 7月29日 | 新潟町が押さえられ、長岡城がふたたび落ちる |
この戦いが示したもの
寺泊沖海戦は、軍艦2隻と蒸気船1隻の、ほんの数時間の戦いでした。けれども、勝ち負けを分けたのは大砲の数よりも、石炭があるかないかでした。燃料を補給できる新政府軍の軍艦と、薪で走るしかなかった順動丸。海の戦いでは、船そのものと同じくらい、それを動かす補給が大切だったのです。
そしてもう一つ、強い艦隊を持っていても、戦いの場に出さなければ役に立たないということです。榎本艦隊が日本海に来ていれば、越後の海の戦いはまったく違うものになっていたかもしれません。阿波沖海戦で新政府側を破った旧幕府海軍は、北越の戦いには一度も姿を見せませんでした。
現地を歩く—寺泊
寺泊は、いまは「魚のアメ横」と呼ばれる魚市場通りでにぎわう港町です。順動丸の外輪を動かしたシャフト(軸)は引き上げられて長岡市の文化財となり、寺泊で大切に保管されています。町の興琳寺の山門には、新政府軍の艦砲射撃の弾の跡が残っていましたが、山門はのちに焼けてしまい、砲弾だけが今に伝わっています。
筆者の感想
寺泊には、まだ行ったことがありません。北越の戦いで訪ねたのは長岡までです。
長岡では河井継之助の戦いぶりばかりに目が行っていましたが、その陰で、海の上でもこんな戦いがあったのですね。もし榎本艦隊が日本海に来ていたら、北越の戦いはどうなっていたのだろうと、つい考えてしまいます。
いつか寺泊にも足を延ばして、順動丸のシャフトを見てみたいと思います。
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参考資料
- 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社)
- 『長岡市史 通史編』(長岡市)
- 長岡市『市政だより』2023年10月号「順動丸シャフト」
文:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです



