前原巧山とは何をした人物か—提灯張りの職人が、宇和島で蒸気船を走らせるまでの五年

炭火のそばで蒸気の釜を見る職人と、組みかけの外輪車(イメージイラスト)

前原巧山は、提灯を張っていた町人から蒸気船の機関を作る職人になった人です。宇和島藩主・伊達宗城に命じられ、設計図もないところから外輪と蒸気機関を考え、一度は「おつぶし方」とあだ名されるほど失敗し、安政六年に試運転にこぎつけました。薩摩藩に次ぐ、日本人の手による二隻目の蒸気船とされています。

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廻船問屋の子が、提灯を張っていました

宇和島藩/伊達家10万石:伊達宗城 蒸気船を建造するなど西洋技術をいち早く取り入れたが戊辰戦争では新政府寄りの中立を保った宇和島藩【幕末維新写真館】
宇和島城(撮影:幕末歴史ガイド)

文化九年、1812年に八幡浜で生まれました。天保九年に宇和島の本町へ移っています。

家は廻船問屋でしたが、父の死後に破産しました。巧山は仏具づくり、具足づくり、提灯張りと職を転々とします。一介の職人です。武士でも学者でもありません。

安政元年、藩主から蒸気船を命じられました

宇和島藩主・伊達宗城の肖像
前原巧山に蒸気船づくりを命じた宇和島藩主・伊達宗城(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

安政元年、豪商の清家市郎左衛門を通じて、宇和島藩主・伊達宗城の構想による西洋式の火輪船を研究せよ、という話が巧山のところへ来ます。

手がかりは何もありません。巧山が思いついたのは、網を曳くのに使う轆轤でした。あの回転の仕掛けから外輪車を作ってみせます。これが認められて御船手に取り立てられました。

そのあと長崎へ三度出張しています。愛媛県の資料によれば、安政元年の三月、六月、八月。三度目は村田蔵六—のちの大村益次郎と一緒でした。見学ではなく本格的な研究のための出張で、二人そろって知識を仕入れて帰っています。

航海術、造船、砲術、船具、測量、数学、機関学。それを提灯張りだった男が学んだわけです。

★「おつぶし方」と呼ばれました

安政二年三月から軍艦の雛形、つまり模型の建造にかかります。九月一日には宗城も乗り込んでの試運転が行われ、成績は上々だったと伝わります。

雛形と推進器は比較的すんなりできました。問題はそこからです。

安政三年一月から実際の蒸気船の建造に入り、安政四年に気罐(ボイラー)が完成します。ところが鋳物で作ったため実験に失敗しました。多額の費用を注ぎ込んだあとでした。

このとき巧山についたあだ名が「おつぶし方」です。御船手の役名をもじった、ひどい呼ばれ方でした。

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薩摩で学び直して、安政六年に走らせました

失敗したあと、蒸気船の関係者は薩摩藩へ行き、技術を学んで再挑戦します。

安政五年七月、蒸気発生器が完成。翌安政六年二月、気罐を船に取り付けて試運転に成功しました。

宇和島市はこれを「薩摩藩に次ぐ、日本人の手による二番目の蒸気船」としています。ただし愛媛県の資料は、同じことを書きながら必ず限定を付けています。「小型で気罐も低出力であったため遠洋航海には不適当であった」。この但し書きは落とさないでおきます。

もうひとつ。愛媛県の資料は、巧山が担当したのは蒸気船の機関部分だと範囲を限っています。船全部を一人で作ったわけではありません。

なおこの船の名前は、公的な資料に出てきません。宇和島市も愛媛県も「蒸気船」「汽船」と書くだけです。「宇和島丸」という名を見かけますが、これは山口県立図書館の資料で村田蔵六が作った雛形の名として出てくるもので、実際に走った船の名とは言えません。

明治になって、もう一度造りました

宇和島藩の自前の造船計画は、財政難もあってしばらく止まります。そのあいだ藩は西洋で造られた船を買うようになりました。慶応二年には船齢三十年の外国船を代金二万六千両で買い、天保録と名づけて長崎での貿易に就けようとしています。

巧山の腕はそれでも評価されていました。明治二年、船奉行の水野八左衛門が汽船の建造を計画したとき、巧山はこれに加わり、大坂からの鉄材の買い付けと気罐の改良に尽くしています。明治三年に完成した汽船は石炭を焚き、大坂への最初の航海に成功しました。

五十八歳のときの仕事です。

造船のほかにも、木綿の織機、ミシン、砲台、小銃、雷管、藍玉、パンまで手を広げています。目の前にあるものは何でも作ってみる人でした。

明治二十五年、八十一歳で亡くなりました。

訪ねるなら

  • 前原巧山の墓(愛媛県宇和島市丸穂、西江寺)。宇和島市指定記念物(史跡)、昭和四十九年二月十二日指定。国立国会図書館が運営するジャパンサーチにも「一介の職人ながら蒸気船の建造に成功した前原喜市(巧山)の墓」として写真が収められています

生まれた八幡浜の側に碑や記念館があるかどうかは、公的機関の資料では確かめられませんでした。確実に訪ねられるのは西江寺の墓です。

名前の表記は「巧山」「嘉蔵」「喜市」が公的な資料に混在しています。どれが唯一正しいとも言えません。

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参考にした資料

  • 宇和島市「市指定 前原巧山の墓」
  • 愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』(宇和島藩の蒸気船建造)
  • ジャパンサーチ(国立国会図書館運営)日本写真保存センター 写真原板データベース
  • 山口県立図書館 大村益次郎紹介資料
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