三吉慎蔵 宛
| 原文 |
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此頃出崎の土佐参政後藤象二郎近頃の人物ニて候。内々御見置可被成候も、よろしからんと存じ、さし出し候龍慎老台おうち様まで御頼申置慎蔵先生左右龍馬─追白、此頃も相不変御いそがしきよしにて候。御出かけなどハ、御無用、其内又参上候。弟拝首。─此十日助太夫方まで帰り申候。折柄、満珠艦出帆の時にて、同人にも吉大夫ニも御目にか〃らず。 十六日龍馬 |
| 現代文 |
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この頃長崎に出てきた土佐藩参政の後藤象二郎は、今どきの人物(傑物)です。内々にご存知になっておいて宜しかろうと思い差し出しました。龍馬慎老台(三吉慎蔵:長府藩士)家まで手紙を送ります。慎蔵先生(三吉慎蔵:長府藩士)龍馬追伸この頃も相変わらずお忙しいとのこと。こちらまで出てこなくても良いです、その内こちらからお伺いします。この十日に助太夫方(伊藤助太夫:下関の豪商)まで帰ってきました。満珠艦(長府藩船の対馬への訓練航行)が出帆の時は同人にも吉大夫(長府藩家老三吉周亮)にも会わなかった。 ○この度は、またまた妻の置き所に困っており、やむおえず一緒に同行してます。このことは飯田在番の耳には入れてあります。宜しくお願いします。 16日龍馬 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
長府藩士・三吉慎蔵へ宛てた手紙で、このごろ長崎に出てきた人物として土佐藩参政・後藤象二郎の名を挙げ、内々に知っておいてほしいと伝えています。かつて土佐勤王党を弾圧した側の重役と、脱藩浪士の龍馬とが手を結ぶという、時代の思いがけない転換を、信頼する友にそっと知らせる一通です。
宛先「三吉慎蔵」とはどんな人物か

長府藩の藩士で、寺田屋事件で龍馬の窮地を救った槍術の名手です。龍馬が身辺の動きや政局の内情を打ち明けられる、数少ない心の許せる相手でした。
この手紙が書かれたころ
薩摩・長州に加えて土佐藩とも結び、大政奉還へ向けた工作を進めていたころの龍馬です。かつての敵味方の枠を越えて人を動かす、龍馬ならではの大きな周旋が実を結びつつありました。この年、土佐藩が大政奉還の建白へ動き、時代は無血の政権返上という選択肢へと向かっていきます。武力倒幕と平和的解決という二つの道が、緊張のうちに並び立っていました。後藤象二郎を中心に、土佐藩は大政奉還の実現へと大きく動き出しました。龍馬はその立役者として、故郷の藩を歴史の表舞台へと導いていきます。
「此十日助太夫方まで帰り申候」、お龍を伴った下関への帰着
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では、この手紙は第五十五番「慶応三年二月十六日 三吉慎蔵あて」です。本文の日付は「十六日」だけで、年月は宮地の比定によります。底本の注記では、原本は神奈川県立公文書館の所蔵とされています。追伸には、この十日に伊藤助太夫の家へ帰ったこと、妻の置き場所に困ってやむを得ず同行させたことが書かれています。慶応三年、龍馬は下関を拠点にしようと、長崎から本陣伊藤家へお龍を迎えました。
長崎での後藤象二郎との会談は、慶応三年一月の清風亭でのこととされています。この手紙で龍馬は、当年の七、八月ごろには土佐も立ち直り、昔日の長薩土になるのではと楽しみにしています。六日後の二月二十二日付で同じ三吉にあてた第五十六番では、「近時新聞」と題して、五卿の帰京の動きや幕府が米国から軍艦を借りる話など五か条の報せを書き送っており、下関に落ち着いた龍馬が長府藩士へ情報を届け続けていたことが分かります。
同じころの土佐—龍馬の脱藩の罪が許される
土佐では 慶応三年(1867)二月、後藤象二郎のはからいで、龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪が許されました。二人は土佐藩の者として、藩のために働く立場を得たことになります。龍馬にとっては、文久二年(1862)に土佐を出てから二度目の赦免でした。
三吉慎蔵と龍馬 長府藩士の三吉慎蔵は、龍馬の新しい立場をもっとも喜んだ一人だったでしょう。この手紙のころ、龍馬は下関の伊藤家に住まいを置き、お龍もここに移り住んでいました。龍馬の留守のあいだ、お龍のことを気にかけたのも三吉でした。
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