河田佐久馬 宛

河田佐久馬 宛

原文

其後ハ御無音申上候。御別後、老兄の事を京の方に申遣し候よふ存候うち、別に愚存も相生じ、先、其ま〃ニ仕候。何卒、今一度御面会仕候時ハ、よほどおもしろき事、御耳に入候と相楽ミ申候。其儀ハ彼の先年御同様、北門の方へ手初致し候事お、又、思ひ出たり。此度ハ既に北行の船も借受申候。其期根ハ三月中旬より四月朔日にハ多分、出帆仕たしと心積致し申し候。

上許を相初候時ハ、必や老兄が留守でハこまり候事故、私も薩の方へハ申不遣在之候。何卒、其御心積りにて何となく三月初旬までのうちそろ々と、関まで御出かけ被成候ずや。小弟も二月十日ニ長崎より下の関まで帰着仕候事ニ御座候。何レ拝顔の時、萬々三月十四日稽首々河田先生御案下追白もし下の関ニ御出浮被成候得バ、まあ今の内ニハ唯、何の事も他にハ御咄しなく、そろ々と御出かけ可被成奉存候。

当時、其御地ニ御留りニて、つがふよろしけれバ別に御出浮被成ずてもよろしく、小弟可後便申上候時を御まち奉願候。又、近日中御出浮被成候得バ、何か上許のよし御相談申上候。何レ後期ニ。再拝河田佐熊先生龍拝御直披※河田佐久馬は鳥取藩もと伏見京都御留守居役で後長州藩に身を寄せる

現代文

ご無沙汰しております。お別れの後、老兄(河田佐久馬:鳥取藩士)のことを京都へ知らせようと思っていたところ、別の考えが湧いたので、ひとまずそのままにしています。今度お会いする時はよほど面白いことをお耳に入れることが出来ると思いますので楽しみです。その内容とは先年同様に、北海道での交易や開発を始めたいと改めて思っております。そして、この度北海道行きの船も借りうけることが出来ました。

期限は3月中旬から4月1日くらいには出港したいと考えてます。この許可を得るときには、必ず老兄(河田佐久馬:鳥取藩士)が留守では困りますので、私も薩摩の方へはまだ知らせていません。何とぞそのつもりで3月初旬までには下関にまで出かけてきて下さい。私も二月十日に長崎から下関へ帰ってきております。何れお会いした時にまた。

2月14日河田先生追伸、もし下関へお出でになるなら、今のうちは他の人には何も話さず、そっとお出かけください。今いらっしゃる土地に留まるほうが都合がよければ、無理に出て来られなくても結構です。私から次の便で知らせるのをお待ちください。また、近日中にお出になるようであれば、お許しを得る話はまた後ほど。河田佐久馬先生龍馬

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

鳥取藩士・河田佐久馬へ宛てた手紙で、龍馬のもう一つの夢である蝦夷地(北海道)開拓の構想を語っています。今度会うときには面白い話ができると期待をにじませ、かねてからの北海道での交易と開発をあらためて始めたいこと、そのための船も借り受けられたこと、三月中旬から四月一日ごろには出港したいことを、生き生きとつづっています。倒幕の周旋家とはまた別の、開拓者・龍馬の顔が見える一通です。

宛先「河田佐久馬」とはどんな人物か

河田景与
河田景与(河田佐久馬)(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

鳥取(因幡)藩の尊皇派の志士です。藩を越えて志を共にする相手として、龍馬は自らの大きな構想を打ち明けています。

この手紙が書かれたころ

倒幕の周旋に奔走する一方で、龍馬は戦の先にある新しい国づくりを見据えていました。蝦夷地の開拓は、あぶれた武士たちに新天地を与えようという、龍馬らしい未来志向の夢でした。倒幕へ向けて政局が緊迫するなか、志士たちは戦後の国のかたちにも思いを巡らせはじめていました。海外との交易や北方の開発は、新時代の大きな課題として意識されていました。土佐藩が大政奉還へ動き出すころ、龍馬は政治の周旋と並行して、海運と開拓の事業構想を温めていました。その視野は、目前の政変を越えて新しい日本の姿にまで及んでいました。

借り受けた大洲の蒸気船と、三月六日の印藤肇宛

宮地佐一郎はこの手紙を「慶応三年二月十四日」と比定しています。ただし青空文庫版の本文では末尾の日付が「三月十四日」となっており、題と食い違います。三月初旬までに下関へ来てほしいと頼み、三月中旬の出帆を見込む内容は、二月とする宮地の比定と合います。前日の二月十三日付で寺田屋お登勢に宛てた手紙でも、居所を「下の関東本陳伊藤助太夫」と知らせています。

「北行の船」の手配は、宮地の三月六日付の印藤肇宛で具体的になります。龍馬はそこで、長崎で大洲の蒸気船を三月十五日から四月朔日まで借り入れる約束を結んだと書いています。この手紙の「三月中旬より四月朔日」と期間がそろいます。ただし印藤宛で同じ時期の行き先として語られるのは「竹島行」で、蝦夷地に渡ろうとしたころから新しい国を開くのが長年の思いだったとも打ち明けています。海援隊が大洲藩から借用したいろは丸は、四月二十三日に紀州藩船と衝突して沈みました。

同じころの鳥取藩—河田佐久馬と因州

因州(鳥取藩)では 宛名の河田佐久馬は鳥取藩士で、文久三年(1863)に藩の重臣たちを斬った「本圀寺事件」にかかわった尊王攘夷派の一人です。鳥取藩主・池田慶徳は将軍慶喜の兄にあたり、藩は幕府と朝廷のあいだで難しい立場に置かれていました。河田らはその後、長州と結んで活動し、戊辰戦争では鳥取藩の兵を率いて新政府軍として戦います。

龍馬のまわりでは 龍馬の手紙の宛先には、土佐・薩摩・長州だけでなく、こうした各地の藩の志士たちも含まれていました。慶応三年の初め、龍馬は藩の垣根をこえた人のつながりを、新しい政治の土台にしようとしていたのです。

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