品川省吾 宛
| 原文 |
| 谷氏の書状御取持ニて私を御頼被遣候よし、定而御用事可有之と奉拝察、今より夕方かけ乙丑丸ニ御待申候間、何卒御来光奉願候。頓首々。十六日龍報国隊中品川様坂本龍馬八ツ半頃ニハ必、船にのり候よふ御心積可然候。 |
| 現代文 |
| 谷氏(高杉晋作の変名)の手紙の取り持ちで、私を頼ってこられるとのこと。さぞかし用事があると推察しますので、今から夕方まで乙丑丸(ユニオン号)で待たせてもらいますね。16日龍馬報国隊宛(長府藩報国隊)品川様(長府藩士品川省吾)八ツ半頃(15時頃)には必ず船に乗るつもりでお願いします。 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
翌日、この船で戦っています
「十六日」としか書かれていないこの手紙は、慶応二年六月十六日のものと考えられています。宮地佐一郎『龍馬の手紙』もその日付で収めています。
なぜ日付が大事かというと、翌日に何が起きたかが分かるからです。慶応二年六月十七日、高杉晋作の指揮する小倉口の渡海作戦で、龍馬は乙丑丸を指揮して実戦に加わりました。艦長は菅野覚兵衛、砲手長は石田英吉。つまりこの手紙は、戦いの前日に、同じ戦線に立つ長府藩報国隊の隊士を船へ招いた一通です。「八ツ半頃ニハ必、船にのり候よふ」という念の押し方にも、それらしい切迫があります。
「八ツ半」は昼のおよそ午後三時。ただし当時は不定時法で、季節によって一刻の長さが変わります。慶応二年六月十六日は新暦の七月二十七日にあたり、一年でいちばん昼の長い時期ですから、いまの時計では三時半前後になる計算です。
名前が三つある船
乙丑丸には名前が三つあります。もとの名はユニオン、薩摩藩は「桜島丸」と呼び、長州藩は「乙丑丸」と呼びました。名義の持ち主と実際の持ち主が違っていたからです。
1854年にイギリスで造られた木造蒸気船で、上海に係留されていたものを、慶応元年に長州藩が五万両を出し、グラバー商会から薩摩藩の名義で購入しました。操船は亀山社中が担うという協定で、その案を作ったのが土佐脱藩浪士の近藤長次郎と長州の井上馨です。買えない長州が、買える薩摩の名前を借り、土佐の浪人たちが動かす。薩長同盟が政治の文書になる前に、船の上で先に形になっていたことになります。
この船は上海から銃七千三百挺を長州へ運び、慶応二年には薩摩の求めで兵糧五百俵を鹿児島へ運びました。のちに社中から戦時の長州藩へ引き渡されて兵員輸送などに使われ、明治四年に山口と下関の商人へ払い下げられています。沈没したという記録は見当たりませんでした。
「谷氏」と、宛先の人
「谷氏」は高杉晋作の変名「谷梅之助」「谷潜蔵」と一致します。辞典類も高杉の変名としてこの名を挙げています。ただし、この手紙の「谷氏」が高杉本人だと直接示す資料は見つかりませんでした。翌日の作戦を高杉が指揮していることを思えば、そう読むのが自然です。
宛先の品川省吾については、人物を特定できる資料が見つかりませんでした。分かるのは宛名書きの「報国隊中品川様」から、長府藩報国隊の隊士だったということだけです。
報国隊は長州本藩の諸隊ではなく、支藩である長府藩の正規軍です。慶応元年の結成で、龍馬と長府藩をつないだ印藤聿が結成に参画して軍監を兼ね、寺田屋で龍馬を守った三吉慎蔵も第二次長州征討のときに報国隊の軍監を務めました。小倉口の戦いでは千人規模だったとされます。
龍馬と報国隊という組織そのものの関係を示す資料はありません。つながっていたのは人です。印藤聿と三吉慎蔵という二人を通じて、土佐の浪人と長府藩の兵が、薩摩名義の船の上で顔を合わせていました。
この手紙について
「谷氏の書状で私を頼るとのこと、ご用があるのだろう。夕方まで乙丑丸で待つので来てほしい。八ツ半には必ず乗船を」と、面会を求める手紙です。十六日付、報国隊の品川宛。文中の「谷梅之助(谷氏)」は高杉晋作の変名で、乙丑丸は長州藩の船。高杉を介した長州との深い連携が背景にうかがえます。
宛先「品川省吾」とは

品川省吾(しながわ しょうご)は長州の諸隊のひとつ「報国隊」に属した人物です。高杉晋作の変名「谷梅之助」が仲立ちとなっており、龍馬と長州の結びつきの一端を示す相手といえます。
この手紙が書かれたころ
長州の船や諸隊とも連絡を取り、薩摩と長州の間を動いていた慶応年間です。高杉晋作らとの縁が、龍馬の活動の場を大きく広げていました。高杉晋作の挙兵で長州は倒幕へ舵を切り、奇兵隊をはじめとする諸隊が力を持ちました。龍馬はその長州と諸藩を結ぶ役割を担っていました。土佐脱藩の龍馬が、長州の隊士と船上で会する―藩を越えた志士のつながりが、まさに時代を動かそうとしていました。
四境戦争のさなか、乙丑丸の上から
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応二年六月十六日のものとしています。原本は下関の長府博物館にあります。谷氏の書状を持って私を頼ってこられたそうだが、きっとご用があるのだろう、今から夕方まで乙丑丸で待っている、八ツ半ごろには必ず船に乗るつもりでいてほしい—と、長府藩の報国隊の品川省吾に宛てています。谷氏は高杉晋作の変名・谷潜蔵のことです。
慶応二年六月は、幕府が長州を攻めた第二次長州征討、いわゆる四境戦争のまっただなかでした。乙丑丸はもとのユニオン号で、薩摩の名義で買い入れて長州へ渡った船です。龍馬はこの船に乗って長州側に立ち、関門海峡での戦いに加わりました。この手紙はその戦いのころ、船の上で客を待つあいだに書かれたものです。報国隊は長府藩の諸隊で、高杉の口ききで龍馬を訪ねてきた品川も、戦のさなかの使いだったことになります。なお当サイトには同じ手紙のページがもう一つあります(品川省吾 宛の手紙)。
同じころの下関—小倉口の戦いの前日
下関では この手紙の翌日、慶応二年(1866)六月十七日、長州藩は関門海峡を渡って対岸の小倉藩領に攻め込みました。四境戦争のうち、九州側の戦線「小倉口」の戦いの始まりです。龍馬は亀山社中が動かしていたユニオン号(乙丑丸)に乗り込み、高杉晋作の指揮のもとでこの渡海作戦に加わりました。龍馬が実際に戦いに加わったのは、生涯でこのときだけといわれます。
四つの戦線 幕府軍はこのとき、長州の四つの国境から攻め込みました。安芸からの芸州口、周防大島の大島口、石見からの石州口、そして九州からの小倉口です。幕府側は数で勝っていましたが、最新の銃を持ち、士気の高い長州軍の前に、各地で苦戦を強いられていきます。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



