お龍 宛
| 原文 |
| 右の本を御こし可被遣候。太刀のゑがかいてあるナリ。やどにてかりてあるたんすのひきだしの下タのはしのひきだしに、白ラさやのたんとふがある。御こし可被遣候。才谷梅太郎謹付貴价申候。 |
| 現代文 |
| 次に書く本を寄こして下さい。太刀の絵が書いてあるものです。宿で借りてあるタンスの引き出しの下の端の引き出しに、白い鞘の短刀がある。これも送って下さいませ。才谷梅太郎(龍馬の変名)謹んでお願いします。(お龍は龍馬からの手紙を他人に見せたくなかったため、全て焼却してしまっている。現在この一点だけが確認されている) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「太刀の絵が描いてある本を送ってほしい。宿で借りているタンスの下端の引き出しに白鞘の短刀があるので、それも送って」という、妻お龍への日用品の依頼です。才谷梅太郎の署名。じつはこれは、龍馬がお龍に宛てた手紙のうち現存が確認される唯一の一通とされます。お龍は龍馬の死後、手紙を人目に触れさせまいとすべて焼いてしまったと伝わり、その中でただ一つ残った、たいへん貴重な手紙です。
宛先「お龍」とは
お龍(楢崎龍)は龍馬の妻です。寺田屋事件のとき、入浴中に危険を察し、そのまま二階へ駆け上がって龍馬に知らせ、危機を救ったと伝わります。事件後は龍馬とともに薩摩へ湯治に赴き、これは日本初の新婚旅行とも言われます。
この手紙が書かれたころ
追われる身で宿を転々とし、本や刀を妻に送らせる暮らしのなかにありました。何気ない依頼のなかに、夫婦の細やかなやり取りが垣間見えます。倒幕をめざす志士たちは、家族と離れ、危険と隣り合わせの日々を送っていました。龍馬もまた、妻とともに身を隠しながら活動していました。脱藩した龍馬は郷里の土佐を離れ、妻お龍と各地を移動していました。藩にも家にも安住できない、浪士ならではの暮らしがそこにありました。
残っている一通は、京都国立博物館にあります
龍馬がお龍に宛てた手紙で現存が確認されているのは一通だけ、という説明はそのとおりです。所蔵しているのは京都国立博物館で、「坂本龍馬・海援隊士書簡類」一巻の巻頭に貼られています。日付は慶応三年五月二十八日。いろは丸事件の交渉のことと、後藤象二郎とともに上京する予定であることを、下関にいるお龍へ知らせる内容です。
この巻物は平成十二年に京都府向日市の井口新助氏から寄贈されました。近江屋の井口新助方に、明治のはじめのお龍が一時身を寄せていたという縁を示す資料でもあります。妻に宛てた最後の便りが、夫の死んだ家の人の手を経て博物館に入った、という道筋です。
なお、ここに掲げた「太刀の絵が描いてある本を送ってほしい」という文面が、その一通のどの部分にあたるのかは、公開されている翻刻では確認できません。
お龍自身は「焼いた」と語っていません
お龍が手紙をすべて焼いたという話は広く伝わりますが、出所をたどると少し様子が違います。お龍晩年の聞き書き『千里駒後日譚』とその拾遺には、焼いたという記述が出てきません。むしろ逆のことを語っています。
拾遺にはこうあります。龍馬の書いたものも日記やら短冊やらいろいろあったが、日記は寺田屋のお登勢が持って行くし、短冊は菅野が取って行ったので、自分の手元には写真一枚しか残っていない。掛軸も妹が持ち去ったといいます。つまり本人の話では、焼いたのではなく、周りの人に持って行かれて無くなったことになります。
焼却説は近年の研究書が典拠で、明治二年ごろに土佐を発つとき「他人に見せたくない二人だけのもの」として燃やすよう頼んだ、とするものです。どちらが本当かは決めかねますが、少なくとも「お龍本人がそう語った」わけではない、という点は押さえておきたいところです。
才谷梅太郎という名前
署名の「才谷梅太郎」は龍馬の変名のひとつです。坂本家の本家は「才谷屋」という質屋で、寛文六年に長岡郡才谷村から高知の城下へ移り住み、一時は有数の豪商になりました。龍馬の家はその分家にあたります。
ただし、この変名が本家の屋号に由来すると明言した公的な資料は見当たりませんでした。坂本家のルーツが才谷村と才谷屋であることと、変名が才谷梅太郎であることは、それぞれ確かな話です。高知県立坂本龍馬記念館は龍馬の変名として西郷伊三郎・才谷梅太郎・取巻の抜六・大浜涛次郎・高坂龍次郎の五つを挙げています。
お龍のその後
生年は資料で三つに分かれます。天保十二年説、天保十一年説、そして横須賀市が除籍簿から示す嘉永三年説です。ただし龍馬自身が慶応二年十二月四日に姉の乙女へ宛てて「私妻ハ則、将作女也。今年廿六歳、父母の付たる名龍、私が又鞆とあらたむ」と書いており、数え二十六歳は天保十二年生まれと合います。
父は京都の医師・楢崎将作。龍馬の死後は三吉慎蔵が世話をし、慶応四年三月に土佐の坂本家へ入りますが、三か月ほどで離れました。明治八年七月、横須賀の西村松兵衛のもとへ「西村ツル」として入籍します。亡くなったのは明治三十九年一月十五日の夜で、横須賀市大津町の信楽寺に葬られました。墓が建てられたのは大正三年八月です。
寺田屋でお龍が知らせたという話には、じつは龍馬自身の証言があります。同じ慶応二年十二月四日の手紙に「今年正月廿三日夜のなんにあいし時も、此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり」。夫が姉に書いた一行が、いちばん確かな出典になっています。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

