亀山社中・海援隊には、坂本龍馬や陸奥宗光のように生涯がよく分かる人がいる一方、名前と出身しか伝わらない隊士もいます。当サイトの海援隊士一覧の一覧は隊士を網羅した書籍をもとにしていますが、そこに書かれた経歴をほかの資料で確かめられない隊士が何人かいました。そうした八人を、一人一ページではなくこのページにまとめ、分かることと分からないことを分けて書いています。
この記事でとりあげる隊士
なぜ記録が残りにくいのか
亀山社中は慶応元年、神戸海軍操練所の廃止で行き場を失った坂本龍馬ら二十余名が、薩摩藩の保護と長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて長崎の亀山に置いた組織です。薩摩藩から一人あたり月三両二分が支給されていました。
ただし「亀山社中」という名称は当時のものではありません。同時代の史料に見えるのは「社中」という名乗りだけです。結成時に龍馬が長崎にいなかった可能性も指摘されており、実際に立ち会ったのは近藤長次郎や高松太郎らだったとする研究もあります。
慶応三年四月、龍馬の脱藩が赦免されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関「海援隊」と改称しました。海援隊約規は目的を「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」と定めており、射利—つまり利益追求を堂々と掲げていたのが特徴です。
隊士の人数は資料により異なり、辞典類は約五十名としています。同時代の隊士名簿にあたる史料は確認されていません。残っているのは『海援隊日史』『海援隊商事』(いずれも京都国立博物館蔵・重要文化財)などの記録類で、名簿ではありません。
そのため周辺の隊士は、生没年すら分からない人が少なくありません。海援隊が脱藩者を主体としたことも、記録が残りにくい理由の一つです。藩の人別帳や履歴から外れてしまうためです。
波多恭輔(土佐藩出身 海援隊士)
| 波多 恭輔 | |||
| 出身 | 土佐藩 | ||
| 職名 | |||
当サイトの隊士名簿の記載:波多恭輔は彦太郎の弟で土佐藩出身の海援隊士。兄と同じく河田小竜の門で勉強していた。
記載の裏付けについて
名簿に記した経歴—波多彦太郎の弟であること、河田小竜の門下だったこと、そして明治になって大村益次郎暗殺の嫌疑で逮捕されたこと—は、今回調べた範囲では確認できませんでした。
大村益次郎の襲撃は明治二年九月四日、京都三条木屋町の旅館で起きました。実行犯は団伸二郎・神代直人ら元長州藩士八人とされ、土佐藩士や海援隊関係者の関与を記した資料は見当たりません。参考にした書籍以外の裏付けが取れていない、とお含みおきください。
高橋勝右衛門(土佐藩出身 海援隊士)
| 高橋 勝右衛門 | |||
| 出身 | 土佐藩 | ||
| 職名 | |||
当サイトの隊士名簿の記載:高橋勝右衛門は土佐藩士出身で海援隊の出崎官である。
記載の裏付けについて
名簿に記した「出崎官」という役職名、および妻の兄とされる「栗尾大作」については、今回あらためて調べた範囲では確認できませんでした。高橋勝右衛門という人物名そのものも、公開されている資料では見つかっていません。参考にした書籍以外の裏付けが取れていない、とお含みおきください。
なお長崎土佐商会(開成館貨殖局長崎出張所)は慶応三年二月ごろに後藤象二郎が開設したとされ(異説あり)、慶応三年三月に着任した岩崎弥太郎が事実上の責任者になっています。
長谷部卓爾(越前藩出身 海援隊士)
| 長谷部 卓爾 | |||
| 出身 | 越前藩 | ||
| 職名 | |||
当サイトの隊士名簿の記載:長谷部卓爾は越前藩出身の海援隊士。
記載の裏付けについて
長谷部卓爾の経歴は、福井藩の『藩士履歴』(松平文庫)に記録が残っています。福井県文書館は「神戸海軍操練所で学んだのちに官僚として故坂本龍馬の北海道開拓計画を支えた」人物として紹介しています。勝海舟のもとで学んだことは裏付けがあります。
いくつか補足します。生年は西暦では一八四四年ですが、和暦では天保十五年五月二日にあたります(弘化への改元は同年十二月)。維新後は開拓使御用掛から開拓大書記官まで進み、明治二十二年十二月から二十七年一月まで第四代の山形県知事、明治三十八年には貴族院の勅選議員となって死去まで務めました。明治四十三年六月十二日没。
ただし「海援隊士だった」という点については、裏付けが弱いのが実情です。福井県文書館は海援隊とは書いておらず、神戸海軍操練所で学んだ人物として扱っています。
島橋兼吾(海援隊士)
| 島橋 兼吾 | |||
| 出身 | 不明 | ||
| 職名 | |||
梅花隊は、島を割った両側から人を集めました
この記事にある梅花隊は、慶応四年四月十五日の布令によって、塩飽の十七歳から三十歳までの志願者から一個小隊として編まれたものです。幹部には人名衆の子弟が入りました。惣年寄・高島惣兵衛の子の高島覺平、高島省三、高倉善次郎といった顔ぶれです。目を引くのは、その正月に焼き払われた小坂の側からも松江甚太郎ら四人が入っていることで、争った両方の側から若者を集めたことになります。小銃五百挺が与えられ、字七番新田におよそ五反歩の調練場が設けられました。
この記事が書くとおり、梅花隊はすぐには解かれませんでした。海援隊そのものは慶応四年四月の末に土佐藩から解散を命じられていますが、梅花隊は明治三年七月に金毘羅で解かれるまで続きます。隊員のなかからは、のちに本島や広島の戸長や村長になった者も出ました。
それ以外は、分かりません
島橋兼吾の生まれた年も、亡くなった年も、出身も、そのあとどうなったのかも確かめられませんでした。広く引かれる海援隊の隊士一覧にも、隊士の出自を調べた研究の表にも、この名はありません。
掘謙司(海援隊士)
| 掘謙 司 | |||
| 出身 | 不明 | ||
| 職名 | |||
「同志十二人」という数の出どころが、分かりません
この記事は堀謙司を「同志十二人の中の一人」としていますが、この十二人という数を使っている資料を、当サイトのほかに見つけられませんでした。ただし当サイトの得能 猪熊のページには、その顔ぶれが並んでいます。いっぽう、讃岐へ渡った海援隊の規模については「総勢三十人ノ将卒」という記述が資料にあります。数え方が二通りあるということになりますので、十二人という数はそう伝わるもの、として読んでいただくのが安全です。
讃岐で海援隊が受け持った仕事
慶応四年正月、朝廷が高松藩の討伐を命じると、土佐藩の軍が讃岐へ入りました。正月二十日に塩飽諸島が土佐藩の預かりとなり、海援隊はその統治にあたります。長岡謙吉が琴平で本部を預かり、八木彦三郎が塩飽を、波多 彦太郎が小豆島を受け持ちました。二月九日には朝廷から土佐藩へ讃岐の島々と小豆島を鎮める命が下り、四月十二日に長岡へ正式な隊長の任命書が渡されます。ところがその半月ほどのちに、土佐藩から海援隊へ解散の命が下りました。
それ以外は、分かりません
堀謙司の生まれた年も、亡くなった年も、出身も、そのあとどうなったのかも確かめられませんでした。広く引かれる海援隊の隊士一覧にも、隊士の出自を調べた研究の表にも、この名はありません。
福島某(越前藩出身 海援隊士)
| 福島 某 | |||
| 出身 | 越前藩 | ||
| 職名 | |||
当サイトの隊士名簿の記載:越前藩出身の海援隊士である。
記載の裏付けについて
越前藩出身の海援隊士とされますが、名前が「某」のままで、それ以上のことは分かっていません。公開されている資料でも該当する人物を確認できませんでした。福井市の観光公式サイトは「海援隊に福井出身の隊士が少なくとも六名いた」としています。
「某」という書き方について
この隊士の表題は「福島某」です。某というのは、名が分からないときに使う書き方で、つまり姓が福島だということしか伝わっていません。海援隊の名簿を作った人が、姓だけを書き留めて、下の名は空けておいたということになります。
姓だけが残るのは、どういうときか
隊士の名が記録に残るのは、たいてい何かの文書に名を連ねたときです。桂井 隼太のページに挙げた讃岐の統治を命じる辞令のように、公の書きつけに名が並べば、その人がいたことは残ります。ところが人づての話で「福島という者がいた」とだけ伝わった場合、下の名まではたどれません。福島某という表記は、そういう伝わり方をしたことを示しています。名簿を作る側が分からないものを分からないまま書いた、その正直さの跡でもあります。
こちらでも、何も見つかりませんでした
この隊士について外の資料を探しましたが、隊士としての記述は一つも見つかりませんでした。出身も、いつ隊にいたのかも、何をしたのかも分かりません。海援隊は脱藩した者が出入りする集まりで、固定した名簿のある組織ではありませんでしたから、こういう人が出てくるのは避けられなかったのだろうと思われます。それでも名を消さずに「某」として残したから、福島という姓の誰かが隊にいたことだけは、いまも伝わっています。
島田源八郎(海援隊士)
| 島田 源八郎 | |||
| 出身 | 不明 | ||
| 職名 | |||
佐渡と伊豆七島も、海援隊は狙っていました
この記事が伝える「佐渡ヵ島、伊豆七島の占領鎮撫許可願」という建白書は、海援隊の広がりを示すものです。佐渡や三宅、八丈といった旧幕府の領地を鎮めさせてほしい、と新政府へ願い出たもので、土州海援隊として石田英吉、長岡謙吉、勝間桂三郎、島田源八郎らの名が連ねられています。讃岐の島々を預かった海援隊が、さらに日本海と伊豆の島々まで見ていたことになります。実際に佐渡や八丈へ渡った形跡は確かめられませんでしたが、願い出たこと自体が、この集団の性格をよく表しています。
塩飽へ先に渡った一人です
慶応四年正月、塩飽諸島が土佐藩の預かりとなると、海援隊が島へ渡りました。正月二十三日に中村官兵衛とともに先に着いたのが島田源八郎で、翌二十四日に八木彦三郎が続いています。島での仕事は、正月の小坂騒動で焼けた跡の後始末と、占領の統治でした。
それ以外は、分かりません
島田源八郎の生まれた年も、亡くなった年も、そのあとどうなったのかも確かめられませんでした。当サイトの得能 猪熊のページには、讃岐へ渡った十二人の顔ぶれが並んでおり、そこにこの人の名も見えます。
小曽根英四郎(長崎の豪商で海援隊士)
| 小曽根 英四郎 | |||
| 出身 | 長崎の豪商 | ||
| 職名 | |||
いろは丸の会計をみた人です
小曽根英四郎は一八四〇年の生まれ、一八九〇年三月六日に五十一歳で亡くなりました。長崎の豪商・小曽根六左衛門の四男で、生涯ひとりでいた人です。慶応二年に長崎へ来た坂本龍馬とお龍に出会い、お龍が月琴を習ったのは英四郎の別邸でした。慶応三年には自分の屋敷に土佐海援隊を置いて支え、蒸気船伊呂波丸(いろは丸)の会計官をつとめています。海援隊の顔ぶれを出自で分けた研究では、英四郎は「豪商」に分けられる唯一の人物です。
兄の乾堂は、国の印を彫った人です
兄の小曽根乾堂は文政十一年五月二日の生まれで、明治十八年十一月二十七日に亡くなりました。篆刻と書の人で、十七歳で篆刻を始め、二十一歳で印譜を出し、勝海舟の印も彫っています。亀山社中には出資者として関わり、亀山焼の工場跡地を本拠地にあてがいました。海援隊になってからも、その本部は乾堂の屋敷に置かれています。乾堂の長女キクが、お龍に月琴を教えました。明治四年には政府から御璽と国璽を彫るよう命じられましたが、出来上がりの評判が芳しくなく、京都の秦藏六と安部井櫟堂が彫り直すことになりました。
そのあとが分かりません
英四郎については、慶応三年より後の歩みが空白です。明治になって何をしていたのか、資料を見つけられませんでした。
ほかの隊士を見る
隊士の全体は海援隊士一覧の一覧に、社中と海援隊の歩みは坂本龍馬がつくった”会社”—亀山社中と海援隊、もう一つの維新にまとめています。

