| 池田庄司 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 不明 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 脱走 | ||
入隊時期は不明です。
慶応三年頃に脱走し薩摩藩に召抱えられたと伝わるが以後の消息は不明です。

池田庄司をもっと深く—新選組を脱けて、薩摩に召し抱えられた男
この隊士には、他ではあまり見ない経歴が伝わっています。慶応三年ごろに脱走し、薩摩藩に召し抱えられたというのです。
敵方に雇われる、ということ
新選組にとって薩摩は、まさに討伐すべき相手でした。その薩摩に、脱走した隊士が召し抱えられる。
ただし、これは思うほど異例ではありません。新選組の内部にいた人間は、京都の情勢と幕府方の動きを知っています。薩摩にとっては値打ちのある人材でした。
同じ記録が伊木八郎にも残っています。この二人は同時期に、同じ経路をたどった可能性があります。
慶応三年に脱走するということ
慶応三年は、新選組がもっとも揺れた年でした。三月に伊東甲子太郎ら十六名が御陵衛士として分離し、六月に幕府の直参へ取り立てられ、その直後に茨木司ら四名が幕臣化を拒んで切腹しています。
局中法度として伝わる五か条は脱走を切腹と定めています。それでもこの年、隊を出ていく者が相次いでいます。取り締まる側だった集団が、内側から崩れ始めていました。
入隊時期も、その後も分かりません
正直に書いておきます。いつ入ったのか、脱走のあとどうなったのか、どちらも記録がありません。薩摩に召し抱えられた、というところで話は途切れています。
もし戊辰戦争を薩摩側で戦ったのなら、かつての仲間と撃ち合ったことになります。板橋で近藤勇が斬られたとき、この人がどこにいたのかは分かりません。
「以後の消息は不明」で終わる隊士は、当サイトにいくつも並んでいます。ですがこの人の場合、消える直前に方向を変えた記録が残っています。それだけでも珍しいことです。
新選組隊士全456名情報
薩摩藩目付の文書に、名前だけが出てきます
薩摩に召し抱えられたという話には、出どころがあります。慶応三年九月付の薩摩藩目付の文書に「薩大隅侯、京都に於いて壬生浪士にて池田庄司と唱え候者、御抱え入に相成り候由の事」という一節がある、と紹介されています。薩摩の殿様が、京で壬生浪士の池田庄司と名乗る者をお抱えになったそうだ—という意味になります。名前と、新選組にいたことと、雇われた先と、時期までが、この一文に入っています。
ただし、伝聞の形で書かれています
気をつけたいのは「相成り候由の事」という結び方で、これは人づてに聞いたことを書き留めるときの言い回しです。薩摩藩が自分のところで誰を雇ったかを記した帳面ではなく、目付が耳にした噂を報告した文書ということになります。ですから池田庄司という隊士がいて、その者が薩摩に雇われたという話が慶応三年の秋に流れていたことまでは言えますが、実際に雇われたかどうかを、この一文だけで決めることはできません。紹介している側も「事実関係は不明」と断りを入れています。それでも、無名の平隊士の名が他家の公文書に出てくること自体が珍しいことですので、手がかりとしては重いものです。
この文書に、伊木八郎の名はありません
同じ経歴が伊木八郎にも付いて回っていますが、薩摩藩目付の文書に出てくるのは池田庄司ただ一人です。伊木のほうは池田屋事件や三条制札事件で恩賞を受けた記録がいくつも残っている隊士で、脱走については横倉甚五郎が「京師ニテ脱走」と書き、島田魁が名簿に印をつけたところまでは分かるものの、薩摩とのつながりを示す記録は見当たりません。
新選組から薩摩へ移った隊士は、ほかにもいます
富山弥兵衛という隊士は、もともと薩摩藩士の子弟で、元治元年に新選組へ入って七番大砲組に属し、慶応元年には伍長になっていました。伊東甲子太郎らが御陵衛士を結成したときにそちらへ移り、油小路事件のあとは薩摩藩に匿われて、鳥羽・伏見では薩摩藩兵として戦っています。ただしこれは脱走して敵方に雇われたのではなく、もとの国へ帰ったという形です。慶応四年閏四月、越後の出雲崎で会津藩の動きを探っているところを水戸の諸生党に捕らえられて殺されました。二十六歳でした。池田庄司の話がもし本当なら、京で隊を脱けてそのまま敵方へ入るという、これとはまるで違う道筋をたどったことになります。
池田庄司の生きた時代—伊東甲子太郎の分離
伊東の離脱 池田庄司が隊にいた慶応三年(1867)の三月、新選組の参謀・伊東甲子太郎は、弟の鈴木三樹三郎や藤堂平助らとともに隊を離れ、孝明天皇の陵を守る「御陵衛士」となりました。表向きは近藤勇の了解を得た分離でしたが、実際には、幕府を支える新選組と、朝廷の側に立とうとする伊東らとの考えの違いがありました。
揺れる隊 伊東らが去ったあとも、隊の中には伊東に心を寄せる者が残り、隊士の離脱や脱走が続きました。池田もこの年に隊を脱けています。この亀裂は、十一月の油小路の変という血なまぐさい結末を迎えることになります。
慶応三年、分かれていく隊
御陵衛士の分離
池田庄司が新選組を離れたころ、隊は大きく揺れていました。慶応三年三月、参謀の伊東甲子太郎が同志十数名を連れて隊を離れ、御陵衛士を結成します。六月には隊士たちが幕府の家臣に取り立てられ、屯所は不動堂村へ移りました。新選組と御陵衛士の間では、隊士が互いに行き来することは固く禁じられていました。このころの主な幹部は次のとおりです。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、井上源三郎 ほか
- 斎藤一は三月に伊東甲子太郎らとともに隊を離れ、十一月に戻ったとされる
- 参謀の伊東甲子太郎、九番組長の鈴木三樹三郎、八番組長の藤堂平助らは、三月に御陵衛士として分離
この年の十一月十八日、新選組は伊東を斬り、油小路で御陵衛士を襲いました。隊を離れた者たちの多くは、その後、薩摩藩の側に身を寄せています。
参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:池田七三郎(局長附)
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