池田小三郎【新選組隊士 伍長 幕末】

池田小三郎
職名 伍長
出身 武蔵江戸
終焉場所 鳥羽伏見の戦い
終焉方法 戦死

元治元年の江戸での徴集にて入隊し慶応二年三条制札事件に出勤。
その後、鳥羽伏見の戦いで戦死と伝わるが、この時生存し江戸に帰還したとも伝わります。

JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)
JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)。明治9年、永倉新八らが建てました(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

池田小三郎をもっと深く—江戸から来て、撃剣師範になりました

別名は小太郎。天保十三年、武蔵国江戸の生まれ。一刀流の遣い手でした。

入隊の翌年に、撃剣師範へ

元治元年十月、江戸での隊士募集に応じて上洛し入隊しました。当初は五番・尾形俊太郎の隊です。

そして慶応元年春の編成で、撃剣師範に昇進しています。入隊から半年ほどでの抜擢です。

撃剣師範は隊士に剣を教える役で、新井忠雄も同じ役を務めていました。剣の腕で身を立てた人だったということになります。のちに伍長も兼ねました。

伍長という役について

ここで役職の説明をしておきます。新選組の序列は、局長→副長→副長助勤(組長)→伍長→平隊士でした。伍長は組長を補佐する立場で、現代でいえば下士官にあたります。

各組に二名ずつ、計二十名だったとする記述をよく見かけますが、これは典拠が示されていないので、そのまま信じるのは危険です。設置時期も、慶応元年三〜四月の編成で初めて登場するとされるものの、一次史料での裏は取れていません。

有名な伍長には、二番組の島田魁がいます。函館まで生き延び、明治後は西本願寺の夜間警備員として生涯を終えた人です。

制札事件と、幕臣の格

慶応元年九月の制札事件に参加し、恩賞として金千疋を受けています。蟻通勘吾や伊藤浪之介も同じ事件に出動しました。

そして慶応三年六月の幕臣取り立てでは、見廻組並御雇の格を得ています。

ここで注意しておきたいのは、隊内の役職と、幕臣としての格は別物だということです。池田小三郎は隊では伍長・撃剣師範ですが、幕臣としては見廻組並御雇。この二つを混同すると、隊士の序列が分からなくなります。

最期は割れています

慶応四年一月三日、伏見で戦死したという記録がある一方、生き延びて甲州勝沼の戦いに参加した可能性も指摘されています。諸説あり、としか書けません。

鳥羽・伏見では井上源三郎も逸見勝三郎も死んでいます。伏見奉行所で薩摩の砲撃を正面から受けた戦いで、刀の腕がまったく通用しない場所でした。撃剣師範だった人が、そこにいたことになります。

新選組隊士全456名情報

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天然理心流の道場「撥雲館」の跡(東京都調布市)
天然理心流の道場「撥雲館」の跡(東京都調布市)。近藤勇が育った多摩の道場です(現地取材の記事・筆者撮影)

褒賞名簿には「池田小太郎」と書かれています

三条制札事件の褒賞名簿を見ると、そこにあるのは「池田小太郎」という名です。小三郎と小太郎、一字違いですが、同じ人を指しているとみるのが通説になっています。隊士の名がこうして揺れるのは珍しいことではなく、伊藤浪之介にいたっては三つの書き方が伝わっています。受けた額は千疋で、蟻通勘吾のページに書いたとおり二両二分にあたります。最高額の二十両からすると八分の一ですから、この夜の持ち場は橋のたもとではなかったようです。

最期については、四つの記録が引かれています

この隊士の死を記した記録として、京都の御香宮に伝わる幕軍戦死者の名簿、永倉新八の記録、近藤芳助の記録、そして横倉甚五郎の記録が挙げられています。無名に近い隊士について四つも典拠が並ぶのは、なかなかないことです。ところがそれでも死んだ場所と状況が一つに定まらず、慶応四年正月三日の鳥羽・伏見で戦死したとする説のほかに、三月の甲州勝沼まで生きていた可能性を指摘するものもあります。記録が多いことと、話が一つに決まることは別だという例になります。

板橋の碑では、戦死者の側です

板橋の新選組供養塔の右側面に、この人の名があります。右側面が戦死した者の側と読まれていますので、少なくとも永倉新八は「戦で死んだ」と考えていたことになります。同じ右側面には蟻通勘吾の名もあります。二人は三条制札事件で同じ千疋を受け、同じ側面に刻まれ、そして片方は慶応四年正月に、片方は明治二年五月に死にました。幕府が倒れた最初の月と、戊辰の戦が終わる最後の月です。同じ夜に同じ額を受け取った二人が、戦争の入口と出口で別々に死んだことになります。

慶応二年の三条制札事件については、三条制札事件とは—三条大橋の高札をめぐる新選組と土佐藩士の斬り合いにまとめています。

鳥羽伏見の戦いでの新選組については、鳥羽伏見の戦いと新選組—伏見奉行所、淀千両松、そして江戸へにまとめています。

池田小三郎の生きた時代—隊士たちの剣

撃剣師範 新選組には、隊士たちに剣術を教える「撃剣師範」が置かれていました。沖田総司・永倉新八・斎藤一らがその役を務め、隊士たちは日々稽古に励みました。隊士の流派は天然理心流・神道無念流・北辰一刀流などさまざまで、新選組は剣の腕の立つ者を各地から集めた集団でもありました(新選組隊士の剣術流派)。

剣の時代の終わり しかし慶応年間になると、戦いの主役は刀から銃へと移っていきました。江戸出身で伍長を務めた池田小三郎のように、剣の腕で隊に加わった者たちも、やがて銃と大砲の戦場に立つことになります。

元治元年の募集と、池田小三郎が見た隊

江戸での隊士募集

池田屋事件で名を上げた新選組は、元治元年の秋、隊士を増やすために江戸で募集を行いました。近藤勇みずからが江戸に下り、伊東甲子太郎らの一団もこのとき加わっています。池田小三郎が入隊したのも、この江戸での募集でした。翌慶応元年には、総勢がおよそ二百人に達したとされます。入隊したころの主な幹部は次のとおりです。

  • 局長:近藤勇
  • 副長:土方歳三
  • 総長:山南敬助
  • 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、斎藤一 ほか
  • 参謀:伊東甲子太郎(この年の秋に加盟)

剣の腕が重んじられた隊

新選組では、天然理心流・北辰一刀流・神道無念流など、さまざまな流派を学んだ隊士が肩を並べていました。撃剣師範に選ばれることは、隊の中で剣の腕が認められた証しでした。

参考資料:Wikipedia日本語版「池田小三郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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