| 田村銀之助 | |||
| 職名 | 両長召抱人 | ||
| 出身 | 磐城平 | ||
| 終焉場所 | 東京 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
田村銀之助をもっと深く—十一歳で入った、いちばん若い隊士の一人
新選組にはわずか十一歳で入った少年がいました。近藤勇と土方歳三のそばに仕え、箱館まで行き、大正時代まで生きて史談会で思い出を語った人です。
兄たちと三人で入隊
安政三年、磐城平藩の出身です。慶応三年、兄の田村一郎・録四郎とともに新選組に入りました。銀之助は隊士ではなく、局長・副長付きの小姓として働いています。
箱館では榎本の小姓に
戊辰戦争では兄たちとともに隊に従い、箱館へ渡ります。箱館政権では、土方歳三の配下から総裁・榎本武揚付きの小姓となり、旧幕臣の春日左衛門の養子にもなりました。
明治の軍人として
五稜郭の降伏後、少年だった銀之助は早くに放され、黒田清隆のもとに引き取られます。のちに陸軍の士官となって西南戦争などに従軍し、開拓使にも勤めました。大正九年には史談会に出て新選組の思い出を語り、大正十三年八月二十日、東京で亡くなりました。
田村銀之助の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 安政三年(1856)八月一日 | 磐城平藩の出身として生まれる |
| 慶応三年(1867) | 兄の田村一郎・録四郎とともに新選組に入る。十一歳。局長・副長付きの小姓となる |
| 慶応四年(1868) | 鳥羽・伏見、流山、会津、仙台と隊に従う |
| 明治元年(1868)冬 | 蝦夷地へ渡る。榎本武揚付きの小姓となり、春日左衛門の養子になる |
| 明治二年(1869)五月十一日 | 土方歳三が戦死する |
| 明治二年五月十二日 | 養父の春日左衛門が戦死する |
| 明治二年五月 | 五稜郭が降伏する |
| 明治 | 黒田清隆のもとに引き取られ、のちに陸軍の士官となる |
| 大正九年(1920) | 史談会に出席し、新選組の思い出を語る |
| 大正十三年(1924)八月二十日 | 死去。満六十七歳(数えで六十九歳) |
田村銀之助を読み解く
少年が見た新選組
新選組にいた少年は、田村だけではありません。土方歳三の写真や遺品を日野に届けた市村鉄之助も、十代で隊に入っています。田村は十一歳で入隊し、十三歳で箱館の降伏を迎えました。近藤勇と土方歳三のそばに仕えた田村の語りは、幹部の日常を間近で見た者の証言として貴重です。
二日のうちに失った二人
箱館では、田村は総裁・榎本武揚付きの小姓となり、旧幕臣の春日左衛門の養子にもなりました。明治二年五月十一日に土方歳三が戦死し、翌十二日には養父の春日も戦死しています。十三歳の少年は、わずか二日のうちに、仕えた副長と養父の二人を失ったことになります。
五稜郭を出なかった少年
降伏の前に、田村は年少であることから五稜郭を出るように勧められましたが、きっぱり断ったと伝わります。箱館ではフランス人の軍事顧問たちからフランス語も学んでいました。子どもとして守られる立場ではなく、一人の隊士として最後まで残ろうとしたことがうかがえます。
史談会で語られた記憶
大正九年、田村は史談会に出て、新選組の思い出を語りました。明治の終わりから大正にかけて、幕末を生きた人々の話を書き留めようとする動きがあり、新選組の生き残りの証言もこうした場で残されました。新選組の隊士のなかで、これほど長く生き、自分の言葉で語り残した人は多くありません。箱館での新選組については箱館の新選組もご覧ください。
はっきりしないこと
兄の田村一郎・録四郎の経歴は、資料が少なく、よく分かっていません。三兄弟がどのような縁で新選組に入ったのかもはっきりしません。
田村銀之助をさらに掘り下げる
故郷の磐城平藩も、同じ夏に戦っていた
銀之助の出身の磐城平藩は、いまの福島県いわき市にあった藩です。幕末には藩主の安藤信正が老中として幕府を支え、文久二年、江戸城の坂下門外で水戸浪士らに襲われて傷を負いました。坂下門外の変です。
戊辰戦争では、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦い、慶応四年七月に平城が落ちています。ちょうどそのころ、銀之助は新選組とともに会津の周辺にいました。故郷の城が焼けたことを、少年の銀之助がいつ、どのように知ったのかは分かりません。銀之助が戦っていた戦争は、彼の故郷をも巻きこんだ戦争だったのです。
なぜ黒田清隆が引き取ったのか
箱館戦争で新政府軍の参謀を務めた黒田清隆は、五稜郭の降伏をまとめた人物です。黒田は降伏した榎本武揚の人柄と才を惜しみ、処刑を免れるよう強く働きかけました。榎本はのちに赦され、明治政府で大臣を歴任します。
その榎本の小姓だった少年を黒田が引き取ったのは、敵将への敬意の延長だったのかもしれません。戦いの勝者が、敗者の側の少年の身を預かる。戊辰戦争の終わり方の一つの形が、銀之助の身の上に表れています。のちに銀之助が開拓使に勤めたのも、黒田が開拓使の中心にいたことと無関係ではないでしょう。
二人の養父と、二人の主人
箱館での銀之助は、土方歳三の配下にあって榎本武揚の小姓を務め、陸軍隊の隊長・春日左衛門の養子にもなっていました。そして明治二年五月十一日に土方が、翌十二日に春日が相次いで亡くなります。十三歳の少年が、わずか二日のうちに仕えた人と養父とを失ったことになります。
その後の銀之助は、新政府の軍人として生きました。旧幕府方として戦った少年が、敵だった側の軍隊で士官になる。明治には、こうした生き方をした元隊士や旧幕臣が少なくありません。銀之助の生涯は、戊辰戦争の敗者がどうやって新しい時代に居場所を見つけていったかを示す一つの例です。
語り残した人の価値
新選組の歴史は、隊士自身が残した記録が少ないため、明治以降の聞き書きや回想に頼るところが大きくなります。永倉新八の回顧録、島田魁の日記、中島登の覚え書きなどと並んで、大正九年の史談会での銀之助の談話は、局長・副長のそばにいた者の証言として貴重です。十一歳から十三歳という幼い目で見た記憶である点には注意が要りますが、近藤と土方を間近で見ていた数少ない人の言葉でした。
田村銀之助と関わりの深い人たち
- 近藤勇・土方歳三—小姓として仕えた局長と副長。
- 市村鉄之助—同じく少年の小姓として箱館まで土方に従った隊士。
- 榎本武揚—箱館政権の総裁。その小姓となりました。
- 黒田清隆—降伏後に銀之助を引き取った新政府の軍人。
田村銀之助のゆかりの地
- 磐城平(福島県いわき市)—出身の磐城平藩。
- 壬生・八木邸(京都市)—新選組はじまりの屯所。銀之助が入った慶応三年には、屯所は西本願寺から不動堂村へ移るころでした。
- 五稜郭(函館市)—榎本の小姓を務めた箱館政権の本拠。
参考にした資料:『史談会速記録』(大正九年の田村銀之助の談話)、新選組の名簿類。
五稜郭と弁天台場に分かれた最後の日々は、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。
箱館での役目と、その後
田村は少年であったため、箱館では戦う側ではなく、榎本武揚の身近に置かれました。この時期にフランス語を学び、片腕を失った伊庭八郎の看病にあたったと伝わります。十代の隊士が蝦夷地で何をしていたのかが、具体的に見える数少ない例です。
明治に入ってからは黒田清隆のもとで北海道の開拓使に勤め、明治十年の西南戦争には陸軍の下士官として出征しました。晩年は旧幕臣の集まりに加わり、史談会の速記録に証言を残しています。墓は東京都文京区大塚の智香寺にあり、墓石には戒名と「大正十三年八月二十日」の命日、そして俗名の田村銀之助が刻まれています。箱館まで行った隊士の墓を、東京の街なかで訪ねられる数少ない例です。
新選組をもっと知る本
十代で箱館まで従った田村のような若い隊士は、名簿に名が残るだけの人が多いものです。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、そうした隊士の輪郭をたどるときの土台になります。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:谷万太郎(槍術師範)
次の隊士 ▶:殿内義雄(平隊士)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

