| 野村利三郎 | |||
| 職名 | 陸軍奉行添役介 | ||
| 出身 | 美濃(大垣藩とも) | ||
| 終焉場所 | 宮古湾 | ||
| 終焉方法 | 戦死 | ||
野村利三郎をもっと深く—宮古湾で真っ先に斬り込んだ若者
近藤勇の最後に付き添い、土方歳三のそばで死んだ若い隊士です。
流山で近藤に付き添った
弘化元年の生まれ。美濃大垣藩の出身ともいわれますが、確かではありません。入隊の時期も分かっていませんが、慶応四年三月、五兵衛新田に集まった新選組の中に名前が見えます。
同年四月、流山で近藤勇が新政府軍に出頭したとき、野村は近藤に同行して捕らえられました。近藤は処刑されましたが、近藤の助命の願いによって、相馬主計とともに釈放されています。
土方の直属、陸軍奉行添役
その後、旧幕府軍に加わって蝦夷地へ渡り、箱館政権では土方歳三の直属である陸軍奉行添役に就きました。
明治二年三月、宮古湾
明治二年三月二十五日、旧幕府軍は新政府軍の軍艦「甲鉄」を奪おうと、岩手の宮古湾で奇襲をかけます。艦を横づけして乗り移る、アボルダージュと呼ばれる戦法でした。
回天に乗っていた野村は、真っ先に甲鉄へ斬り込んだといわれます。しかし作戦は失敗し、撤退に間に合わず甲鉄の上で戦死しました。二十六歳でした。
野村利三郎の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 弘化元年(1844) | 生まれる。美濃国大垣藩の出身とされるが、確かではない。本名は源義時 |
| 若いころ | 同じ藩の者と口論のすえ決闘し、藩を離れたと伝わる |
| 慶応四年(1868)三月 | 五兵衛新田に集まった新選組の記録に名が初めて出る |
| 慶応四年四月 | 下総流山で近藤勇の出頭に付き添い、ともに捕らえられる |
| 慶応四年四月二十五日 | 近藤の助命嘆願などを経て、相馬主計とともに放される |
| 慶応四年 | 相馬とともに幕府陸軍の春日左衛門の隊に加わり、常磐口で戦う |
| 明治元年(1868) | 榎本武揚の艦隊に合流して蝦夷地へ渡る。陸軍奉行添役として土方歳三の直属になる |
| 明治二年(1869)三月二十五日 | 宮古湾海戦で回天丸から甲鉄艦に斬り込み、艦上で戦死する。二十六歳 |
野村利三郎を読み解く
最後の局面から加わった隊士
野村の名が新選組の記録に初めて出るのは、慶応四年三月、甲州勝沼で敗れた隊が江戸近くの五兵衛新田に集まったときです。京都時代の新選組を知らない、いわば最後の局面から加わった隊士でした。それにもかかわらず、野村は流山で近藤勇の出頭に付き添うほど、近藤の身近にいます。短いあいだに信頼を得た人だったのでしょう。
近藤の最期の場に居合わせた
流山で出頭した近藤は、新政府軍に捕らえられ、板橋で斬首されました。付き添った野村と相馬主計も一緒に捕らえられましたが、放されています。近藤の最期に近いところまで立ち会った二人は、そのあとも旧幕府方として戦い続けました。流山から板橋までの流れは近藤勇、最後の百日にまとめています。
宮古湾の斬り込み
宮古湾海戦は、旧幕府軍が新政府軍の新鋭艦「甲鉄」を奪おうとした戦いです。回天丸が甲鉄に船体をぶつけ、兵が乗り移って斬り込みましたが、甲鉄の機関砲に撃たれて失敗しました。野村は甲鉄の甲板に飛び移ったものの、引き上げに間に合わず、その場で討たれたと伝わります。遺体は海に捨てられたといわれ、墓はありません。この戦いには土方歳三も回天丸に乗っていました。箱館での戦いは箱館の新選組もご覧ください。
はっきりしないこと
野村の出身地や、大垣藩で決闘したという話は、確かな記録で裏づけられていません。
宮古湾海戦と野村利三郎をさらに掘り下げる
三隻で出て、一隻で戦った
宮古湾の奇襲は、はじめ回天・蟠竜・高雄の三隻で行う計画でした。ところが途中で嵐に遭って蟠竜がはぐれ、高雄は機関の故障で速さが出なくなります。結局、宮古湾に突入できたのは回天一隻だけでした。
回天は外国の旗を掲げて湾に入り、甲鉄に近づいたところで日の丸に掲げかえて襲いかかったと伝えられます。しかし回天は船の横腹に大きな外輪を持つ船で、相手の艦にぴたりと横づけすることができませんでした。やむなく船首を甲鉄の横腹に乗り上げる形で接舷しますが、回天のほうが甲板が高く、斬り込む者は数メートル下の甲鉄の甲板へ飛び降りなければなりませんでした。一度に大勢が乗り移ることはできず、先頭の者ほど孤立することになります。
ガトリング砲の前で
甲鉄には、多くの弾を続けて撃ち出すことのできるガトリング砲が備えられていました。回天から飛び降りた者たちは、この銃火の前にさらされます。戦いは三十分ほどで終わり、回天は多くの死傷者を出して引き上げました。艦長の甲賀源吾もこの戦いで命を落としています。
真っ先に斬り込んだ野村は、まさに最も危ない場所にいたことになります。刀を持って敵の艦に乗り移るという戦い方は、京都の町で斬り合ってきた新選組らしい勇ましさでした。しかしそれは、銃と大砲が勝ち負けを決める時代の戦いの中では、あまりにも分の悪いものでした。鳥羽伏見で刀から銃への変わり目を見た新選組が、最後にもう一度、刀で挑んだ戦いだったともいえます。
近藤に救われた命を、土方のそばで
野村は流山で近藤勇とともに捕らえられ、近藤の願いもあって命を救われた人でした。その命を、今度は土方歳三のそばで戦いに捧げています。近藤の最後に付き添い、土方と同じ艦に乗って死んだ野村の短い新選組での日々は、隊の最後の一年をそのまま映しているようです。
流山でともに救われた相馬主計は、その後も箱館で戦い、最後の新選組隊長として降伏しました。同じ場所で命を拾った二人が、一人は宮古湾の海に消え、一人は隊の終わりを見届けることになったのです。相馬については相馬主計のページをご覧ください。
なぜ甲鉄を奪おうとしたのか
甲鉄は、もとは幕府がアメリカに注文していた鉄張りの軍艦で、戊辰戦争が始まると新政府の手に渡りました。旧幕府軍の艦隊は、開陽丸を江差の沖で失い、海での力が大きく落ちていました。新政府軍が甲鉄を先頭に蝦夷地へ攻め寄せてくれば、箱館を守りきることはできません。甲鉄を奪うことは、箱館政権にとって生き残りをかけた賭けだったのです。その賭けの最前線に、野村はいました。
野村利三郎と関わりの深い人たち
野村利三郎のゆかりの地
- 近藤勇陣屋跡(千葉県流山市)—近藤に付き添って出頭した場所。
- 宮古湾(岩手県宮古市)—宮古湾海戦で戦死した海。
- 五稜郭(函館市)—箱館政権の本拠。
参考にした資料:Wikipedia「野村利三郎」、新選組の名簿類。
箱館に渡った隊士たちのその後は、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。
甲州へ向かってから捕らえられるまでの近藤勇は、近藤勇、最後の百日—甲陽鎮撫隊・勝沼の敗戦から流山の出頭、板橋の刑場までに日付の順でまとめています。
墓のない隊士の名が刻まれた碑
野村の遺体は海に投じられたと伝わり、墓はありません。ただし函館の称名寺にある新選組の供養碑には、その名が刻まれています。墓標を持たない隊士の名が、供養碑の上に残されている形です。箱館で戦った隊士たちを弔うために建てられた碑で、野村のように遺体の行方が分からない者の名も並んでいます。
宮古湾の海戦は明治二年三月二十五日、西暦では1869年5月6日のことでした。回天丸に乗り込んで甲鉄艦に斬り込んだ末の戦死です。二十六歳でした。大垣藩士の家に生まれ、同僚との争いから脱藩したという話も伝わりますが、そちらは諸説あります。
職名について
当サイトはこの人の職名を「陸軍奉行添役介」としてきましたが、この書き方を裏づける資料は確かめられていません。土方歳三の官職が箱館政権の「陸軍奉行並」で、その下に付く役が「陸軍奉行添役」です。野村については局長附とする記述もあり、役名の伝わり方が一つに定まっていません。
新選組をもっと知る本
宮古湾で死んだ野村の最期は、京都の話が中心の永倉新八『新撰組顛末記』の外側にあります。蝦夷地までの流れは、関係者の証言を集めた子母澤寛『新選組始末記』が手がかりになります。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:野口健司(副長助勤)
次の隊士 ▶:服部武雄(諸士取調役兼監察)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

