| 甘地一撰 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 常陸土浦 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 不明 | ||
慶応元年に入隊しました。
鳥羽伏見の戦いで戦死とも江戸帰還後に脱走とも言われています。
以後の消息は不明です。
目次
甘地一撰をもっと深く——常陸土浦から来た、と伝わる隊士
慶応元年に入隊。最期については鳥羽・伏見で戦死したとも、江戸へ帰還したあと脱走したとも言われ、定まっていません。
先に断っておきます
正直に書いておくと、この人の「常陸土浦出身」という記述も、二つの最期の説も、ウェブ上で出典をたどることができませんでした。おそらく活字の隊士名鑑が原典です。ここから先は「そう伝わっている」という前提で読んでください。
土浦から新選組へ、というのは筋が通ります
土浦藩は土屋家九万五千石。幕末の藩主・土屋寅直は水戸藩の徳川斉昭の従弟で、最後の藩主・土屋挙直にいたっては斉昭の十七男です。水戸とこれ以上ないほど濃くつながっていました。
そして元治元年三月、土浦のすぐ北の筑波山で天狗党が挙兵します。六月には天狗党の別働隊が城下に近い真鍋宿に火を放ち、土浦藩は討伐に動いて十九人を斬りました。栗原には、その供養塔である天狗塚が残っています。
甘地一撰が入隊した慶応元年は、その翌年です。水戸の尊攘思想が藩内抗争に発展し、土地が荒れた直後にあたります。土浦城を歩いたときにも書きましたが、この藩は幕末に「巻き込まれた側」でした。
二つの最期
伝わる説は、まったく違う方向を向いています。
- 鳥羽・伏見で戦死——慶応四年正月、伏見奉行所で薩摩の砲撃を受けた戦い。逸見勝三郎や井上源三郎もここで死んでいます
- 江戸帰還後に脱走——京都を失って隊の存在理由が消えたあと、荒木信太郎らと同じ道をたどったという説
戦死と脱走では、まるで正反対です。それが両方伝わっているというのは、この人の最期を確かめた人が誰もいなかったということでしょう。
新選組の隊士名簿は複数の系統があって錯綜しており、こうした食い違いは珍しくありません。どちらかが嘘というより、両方とも誰かの記憶だったのだと思います。

