| 斎藤一 | |||
| 職名 | 三番隊隊長 | ||
| 出身 | 江戸 | ||
| 終焉場所 | 東京・本郷 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||

謎多き三番隊組長
斎藤一は、新選組の三番隊組長・撃剣師範を務めた剣客で、その出自や剣の流派には不明な点が多く、「謎の剣士」として語られます。無口で沈着、いざというときの働きは群を抜いていたとされ、局内でも一目置かれる存在でした。

間者としての活躍と会津への忠義
新選組を離脱した伊東甲子太郎らの御陵衛士(高台寺党)に、斎藤は間者(スパイ)として潜入し、その動向を探ったと伝えられます。これがのちの油小路事件へとつながりました。戊辰戦争では会津まで転戦し、多くの隊士が離れゆくなかでも会津藩とともに戦い抜いた忠義の人でもありました。

警察官として生きた後半生
維新後、斎藤は藤田五郎と名を改め、警視庁の警察官として西南戦争にも従軍したと伝えられます。晩年まで剣とともに生き、大正時代まで長寿を保った、新選組の数少ない生き証人の一人です。
斎藤一をもっと深く—五つの名を持ち、七十二歳まで生きた男
新選組の幹部で、明治を長く生き、警視庁で西南戦争を戦い、東京の学校で剣を教えて畳の上で死んだ人は、この人だけです。
名前が五つあります
- 山口一—本名
- 斎藤一—文久二年、江戸で刃傷事件を起こして京都へ逃げたときに改名
- 山口二郎—慶応三年
- 一瀬伝八—戊辰戦争期
- 藤田五郎—斗南移住の直前。妻の母方の姓です
明治のあいだ「斎藤一と藤田五郎は別人だ」という説がありましたが、いまは否定されています。実兄の娘の恩給請求書に藤田五郎が親戚として署名していること、義父の記録が斎藤一を「藤田五郎」と記していることが根拠です。
江戸で人を斬って、京都へ逃げました
天保十五年正月元日、江戸の生まれ。父・山口右助は明石藩の足軽から江戸へ出て旗本の家来になった人です。
十九歳のとき、小石川関口で旗本と口論になって斬ってしまい、逃亡します。父の友人だった京都の道場主に匿われ、そこで師範代を務めました。
そして文久三年三月十日、壬生浪士組の結成に十一人の一人として加わります。近藤らの試衛館組ではなく、京都で合流した組です。二十歳で副長助勤、のちに三番隊組長・撃剣師範になりました。
御陵衛士へ—間者だったのか
慶応三年三月、伊東甲子太郎の御陵衛士に参加します。そして十一月、近藤勇の暗殺計画を新選組へ通報したとされ、これが油小路事件の引き金になりました。
離脱のとき衛士の活動資金を持ち出したとされますが、これは「金に困って逃げたように見せかける偽装」だという解釈もあります。
ただし「間者だった」というのは御陵衛士側の記録に由来する見方で、新選組が斎藤を間者に任命した記録があるわけではありません。ここは断定を避けるべきところです。
土方と別れて、会津に残りました
母成峠に敗れたあと、旧幕府軍の方針は割れます。土方歳三は仙台への転戦を主張し、斎藤は会津で戦い抜くことを主張しました。そして塩川で別れます。
このときの斎藤の言葉が『谷口四郎兵衛日記』に残っています。
一トタヒ会津来リタレハ今落城セ…
一度会津に来た以上、落城しようとしているいま、見捨てて去ることはできない。これが会津残留の一次史料です。
そして明治元年九月四日、神指の如来堂で新政府軍の攻撃を受けます。長く「全滅・斎藤も戦死」と伝えられてきましたが、実際には数名が生還しました。池田七三郎もここを脱出しています。
松平容保が仲人を務めました
明治七年三月、高木時尾と再婚します。このときの顔ぶれが尋常ではありません。
上仲人が松平容保。下仲人が佐川官兵衛と山川浩。会津藩の最高位の人々が、一介の元新選組隊士の仲人に並んでいます。会津がこの人をどう見ていたかが分かります。
そして警察官になり、西南戦争を戦います
明治七年七月、警視庁に採用されました。明治十年五月、西南戦争に別働第三旅団の警視徴募隊二番小隊半隊長として従軍し、敵の大砲二門を奪う戦功を挙げています。右の肋骨あたりを負傷しました。明治十二年、勲七等青色桐葉章と賞金百円。
その後は麻布警察署の警部を務め、明治二十五年に退職。東京高等師範学校で撃剣師範として学生を指導し、「誰ひとり斎藤の竹刀に触れることさえできなかった」と伝わります。五十歳前後の話です。
大正四年九月二十八日没、享年七十二。仏間で結跏趺坐したままの往生だったと伝わります。墓は東京ではなく、会津若松の阿弥陀寺にあります。
「左利き」の根拠について
斎藤一といえば左手で刀を構える姿が定着していますが、その根拠は子母澤寛『新選組物語』の描写だけです。斎藤を描いた絵も写真も、通常どおり左腰に帯刀しています。
さらに厄介なのは、子母澤が典拠としたはずの斎藤の口述筆記「夢録」が、研究者が探し続けているのに現物が発見されていないことです。剣術の流派すら、一刀流・無外流・溝口派一刀流・小野派一刀流と説が割れ、どれも典拠が弱い。
七十二年を生きて詳しい経歴が残っているのに、刀の握り方も流派も分からない。この人はそういう人です。
漫画・ゲームの斎藤一と、史料の斎藤一
左利きの剣士—出どころは昭和の小説です
斎藤一といえば左利き、左手一本の突き—このイメージのもとは、子母澤寛の『新選組物語』です。同じ新選組の谷三十郎が殺された場面で、傷が左からの突きだったので、左片手の突きを得意とする斎藤が下手人ではないか、と書かれています。
ただし、これが聞き書きにもとづく話なのか創作なのかは分かっていません。残る写真や絵では、斎藤はふつうの武士と同じく左腰に刀を差しています。左利きだったと断定できる史料はありません。漫画の必殺の突き技も、このイメージから生まれたものです。
最期は東京の自宅で、座ったまま
大正四年九月二十八日、東京・本郷の自宅で亡くなりました。七十二歳です。最期は床の間で座禅を組んだまま息を引き取った、と伝えられています。墓は東京ではなく、会津若松の阿弥陀寺にあります。
明治の「藤田五郎」の仕事
警視庁を明治二十五年に退いたあとは、東京高等師範学校附属の東京教育博物館、続いて東京女子高等師範学校(いまのお茶の水女子大学)に勤めました。剣を振るった京都時代から、ずいぶん遠いところまで生きた人です。
斎藤一と関わりの深い人たち
- 近藤勇・土方歳三—京都で合流した斎藤を副長助勤に取り立てた二人。土方とは会津で道が分かれました。
- 伊東甲子太郎—斎藤が一時加わった御陵衛士の盟主。油小路で討たれます。
- 藤堂平助—同じく御陵衛士に加わり、油小路で命を落とした八番隊組長。
- 沖田総司・永倉新八—剣の腕で並び称された組長たち。
- 松平容保・佐川官兵衛・山川浩—明治七年、斎藤と高木時尾の結婚の仲人を務めた会津藩の人々。
斎藤一のゆかりの地
- 阿弥陀寺(福島県会津若松市七日町)—斎藤一(藤田五郎)の墓があります。
- 如来堂(会津若松市神指町)—明治元年九月、斎藤らが新政府軍に襲われた場所。
- 母成峠古戦場—会津へ攻め込む新政府軍を防ごうとして敗れた戦場。このあと土方と別れます。
- 会津藩—斎藤が最後まで戦い、明治以降も縁を持ち続けた藩。
- 壬生・八木邸(京都市)—壬生浪士組の屯所。斎藤はここで結成時から加わりました。
参考にした資料:子母澤寛『新選組物語』、『谷口四郎兵衛日記』、会津若松市の観光案内(阿弥陀寺)。
この隊士が関わった油小路事件については、油小路事件とは—伊東甲子太郎と御陵衛士が斬られた夜で詳しくまとめています。
新選組の隊士たちの墓所は、新選組の墓所めぐりに地域ごとにまとめています。
池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。
会津での新選組の戦いと、土方・斎藤の別れについては、会津の新選組—宇都宮・白河口・母成峠・如来堂、土方と斎藤が別れた夏にまとめています。
新選組の役職と、それぞれを務めた隊士は、新選組の組織と役職—局長・副長・組長・監察・勘定方・伍長、誰が何を務めたのかにまとめています。
新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。
新選組と会津藩の関わりは、新選組と会津藩—京都守護職・松平容保の「お預かり」から、会津での最後の戦いまでにまとめています。
新選組をもっと知る本
小説で新選組に入った人も、史実から入りたい人も読みやすい本です。『新撰組顛末記』は二番隊組長・永倉新八が晩年に語った回顧録、『新選組始末記』は昭和の初めに関係者の聞き書きをまとめた本で、どちらも後の小説やドラマのもとになりました。
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参考資料:Wikipedia日本語版「斎藤一」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:永倉新八(二番隊隊長)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



