翔凰丸【薩摩藩 仮装軍艦 幕末軍艦】

翔凰丸
藩名 薩摩藩
藩主 島津忠義(茂久)
船種 仮装軍艦
機関 蒸気内車
備砲 4門
材質 鉄製
馬力 不明
写真 無
翔凰丸のイメージイラスト
翔凰丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(仮装軍艦・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

翔凰丸は薩摩藩が保有した木造帆船の軍艦(輸送艦)で、元治元(1864)年四月八日にイギリスより12万ドルで購入しました。慶応三年(1868年)一月十九日の江戸薩摩藩邸の焼討事件の際、薩摩藩士や薩摩藩に属していた浪士集団の避難に用いられ、旧幕府海軍の咸臨丸、回天丸の追跡を受けたが逃走に成功しました。

慶応四年(1868年)一月二十八日の阿波沖海戦で、僚艦の「春日丸」とともに、旧幕府軍の旗艦「開陽丸」と交戦し、艦尾に被弾して火災を引き起こして座礁・自焼しました。

目次

翔凰丸をもっと深く—薩摩藩邸焼き討ちの夜、この船が浪士を乗せた

イギリス生まれ、旧名ロチウス。元治元年に薩摩藩が買った四百六十一トンの船です。この船が幕末史に残るのは、戦闘ではなく「逃がした」ことによります。

建造 イギリス
旧名 ロチウス
購入 元治元年(1864年)、薩摩藩
トン数 461トン
区分 仮装軍艦
最期 阿波沖で自焼

慶応三年十二月、江戸薩摩藩邸

王政復古の直後、江戸の三田にあった薩摩藩邸は、庄内藩などの兵に焼き討ちされました。藩邸を拠点に江戸市中で撹乱工作を行っていた浪士たちを、幕府側が一掃しようとした事件です。

その工作の中心にいたのが相楽総三。のちに赤報隊を率い、「偽官軍」の汚名を着せられて処刑される人物です。

焼き討ちの夜、相楽総三らは品川沖に停泊していた翔凰丸に逃げ込みました。この船が浪士たちを収容して江戸を離れたことで、彼らは生き延びました。そして江戸薩摩藩邸焼討事件は、鳥羽伏見の戦いの直接の引き金になります。

「仮装軍艦」という区分

翔凰丸は商船を武装させた仮装軍艦です。同じ薩摩の春日丸も同じ区分でした。三邦丸にいたっては備砲ゼロで、人と荷を運ぶだけの船です。

薩摩の海軍力とは、軍艦の数ではなく「動かせる船の数」でした。兵を運び、人を逃がし、物資を回します。翔凰丸が果たしたのはまさにその役割です。

阿波沖で、自ら焼いた

最期は阿波沖での自焼と伝わります。座礁したのか、敵手に渡すのを避けたのか、事情は資料で確認できません。

相楽総三を乗せた船が、四国の沖で燃やされて消えます。そして相楽自身も、明治元年に下諏訪で斬られました。船も人も、維新の直後にいなくなっています。

翔凰丸を船の型と持ち主から読む

翔凰丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「仮装軍艦」。商船に大砲を積んだ仮装軍艦です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。

当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この翔凰丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、三邦丸(蒸気内輪船)、万年丸(仮装軍艦)、豊瑞丸(輸送船)、平運丸(ブリッグ級輸送船)、白凰丸(輸送船)、天佑丸(輸送船)、竜田丸(バーク級輸送船)、青鷹丸(輸送船)などがあります。

持ち主の薩摩藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。翔凰丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

持ち主の薩摩藩—英国への留学生

薩摩藩英国留学生

慶応元年(1865)三月、薩摩藩は幕府の禁を破って、十九人の藩士をイギリスへ送り出しました。鹿児島の羽島の浦からひそかに出航した一行には、のちに外交官となる寺島宗則、初代文部大臣となる森有礼、大阪の財界を築く五代友厚らが含まれていました。

薩摩の変化

薩英戦争からわずか二年、薩摩藩は敵として戦ったイギリスに若者を学ばせる道を選んだのです。翔凰丸のような洋式の船を動かし、西洋の技術を取り入れるには、それを学んだ人材が欠かせませんでした。

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