国道四百六号、かつての草津街道を高崎から一時間ほどさかのぼると、山あいの集落に出ます。群馬県高崎市倉渕町権田。ここに諏訪山東善寺という曹洞宗の寺があります。訪ねた日は雨でした。参道の石畳が濡れて黒く光り、杉の間を雨足が斜めに走っていました。
小栗家の菩提寺になったのは、宝永元年からです
東善寺の創建は寛永十年(1633年)、開山は円室存察大和尚と伝わります。本尊は釈迦牟尼仏。寺紋は「丸に立波」で、これは旗本小栗家の家紋と同じものです。中興開基が小栗家五代の政信で、権田村が小栗家の知行地になったのは宝永元年(1704年)のことでした。小栗上野介忠順は、その小栗家の十二代にあたります。
つまりこの寺と小栗家の縁は、忠順が生まれるより百二十年ほど前から続いていたものです。江戸で生まれ育ち、遣米使節としてアメリカを見て、横須賀製鉄所を起こした男が、最後に身を寄せた土地は、家が代々知行していた山の村でした。

この寺は、慶応四年の仮住まいでした
慶応四年(1868年)三月、忠順は帰農の許可を得て権田村へ移ります。観音山に家を建てるあいだ、仮住まいとしたのがこの東善寺でした。勘定奉行まで務めた人物が、寺の一間で暮らしていたわけです。観音山の家は上棟の日を待たずに終わりました。
閏四月四日、妻を逃がして、自分は寺へ戻りました
東善寺が伝える日付は具体的です。閏四月三日、忠順と妻の道子は寺を出て権田村亀沢の大井彦八の家に身を寄せます。翌四日、村名主の佐藤藤七に説得されて忠順だけが東善寺へ戻り、道子は村役人の中島三左衛門に託されました。中島は村人で護衛隊を組み、会津を目指します。
一行の道筋も残っています。閏四月六日の夕方に権田村を発ち、坂上村、六合村を経て、野反池から地蔵峠を越え、和山温泉で二泊。反里口、十日町を抜けて四月二十六日の夜に新潟の酒屋陣屋、二十八日の朝に津川、その日の夕方に会津若松の紙問屋「湊屋」へ入りました。二十二日かかっています。そして六月十日、会津戦争の直前、道子は南原の避難所で女児を産みました。国子と名づけられたその子が、忠順の唯一の遺児です。
護衛隊からは二人が戦死しました。佐藤銀十郎、二十一歳。塚越冨五郎、二十三歳。いずれも水有の出身です。生き残った者たちは明治二年の春、道子と国子を静岡まで送り届けたあと、乞食同然の姿で権田村へ帰ったと伝えられます。その後の母子を支えたのが三野村利左衛門であり、のちの大隈重信夫妻でした。母子のその後は小栗忠順の遺児はどう生きたかにまとめています。
閏四月六日、水沼の河原
高崎市の説明はそっけないほど短いものです。閏四月五日に忠順と家臣三人が捕らえられ、何の取り調べもないまま翌六日に水沼川原で斬られた。四十二歳でした。養子の又一は翌七日、高崎城内で家臣三名とともに斬られています。二十一歳でした。なぜ斬られたのかについては、罪状に埋蔵金は入っていません。
烏川のほとり、水沼橋のたもとに碑が立っています。碑文はこうです。
偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる 岳南 蜷川新書
書いたのは蜷川新、法学博士です。道子夫人の妹ハツの息子、つまり忠順の義理の甥にあたります。建立は昭和七年(1932年)。権田村の村民が基金を出し合って建てました。届け出たとき「官軍が罪のない者を斬るはずがない」として高崎警察署長がこの文言を問題視したと伝わりますが、碑文は変えられませんでした。いまは高崎市の史跡に指定されています。昭和五十七年(1982年)四月一日の指定です。
墓前の胸像は、横須賀から来ました

墓のそばに胸像が立っています。この像の来歴が、なかなかの話です。
もとは横須賀にありました。大正四年(1915年)の横須賀海軍工廠五十周年式典で職工たちから声が上がり、市を挙げての募金に貞明皇后の御手許金も下賜されて、大正十一年(1922年)九月、朝倉文夫作の青銅像が除幕されます。小栗とヴェルニーの二体でした。ところが第二次大戦中の金属供出で青銅像は持っていかれ、横須賀市は型をとったセメント像を代わりに据えます。そして昭和二十七年(1952年)九月二十七日、内藤春治の手による新しい像が臨海公園、いまのヴェルニー公園で除幕されました。
役目を終えて外されたセメント像を、東善寺の前住職村上照賢が働きかけて横須賀市から譲り受け、権田へ運んで墓前に据えた。それがこの胸像です。造船所を作った人の像が、造船所の町で作り直され、その代役がこの山の中まで来たことになります。

父子の墓と、裏山の本墓
境内の墓は群馬県の史跡です。昭和二十八年(1953年)八月二十五日の指定。建てたのは明治初年の権田の村人でした。正面に小栗父子の墓、その左右に家臣と家族、そして会津での戦死者の墓が五つずつ並びます。斬った側ではなく、斬られた側の村人が建てた墓です。
そしてこの供養墓から登って二、三分のところに、裏山の本墓があります。遺体と、館林から盗み返してきた首級が埋められている場所です。取り返した首をどこへ納めたか、という話が、これほど具体的な場所として残っている例はそう多くありません。
墓のかたわらには黒椿があります。「崑崙黒」という品種で、忠順が江戸から鉢植えで運んできたものだと伝わります。樹齢は百数十年。椿とシャクヤクは田口十七蔵が買い求め、明治初年に墓のそばへ植えたものだそうです。春になると、黒みを帯びた八重の花が咲きます。
いま、境内に記念館が建っています
東善寺の境内では、小栗上野介記念館の建設が進んでいます。二〇二六年六月十一日に地鎮式が行われ、高崎市長が鍬を入れました。国道四百六号に面した境内の一角です。構造は一階がコンクリート造、二階が木造。一階の外壁はナマコ壁、二階の展示室を広くとるために「せがい造り」とし、通風のための越屋根を載せる設計だと寺は説明しています。
そして外壁に掲げる文字のうち「小栗上野介」の五文字は、蜷川新の書を使うことになっています。水沼の河原で「罪なくして此所に斬らる」と書いたあの人の字です。碑が建ってから九十年あまり、同じ筆跡が記念館の看板になる。この土地が忠順をどう扱ってきたかが、その一点によく出ています。
いまの遺品館は手狭で、資料は本堂や庫裡にも分散して置かれています。二〇二六年三月には螺鈿細工の飾棚が寄進され、道子夫人の嫁入り道具の可能性があるとされていますが、断定はされていません。
訪ねるときのこと
拝観は八時から十七時まで、受付は十六時三十分まで。拝観料は大人二百円、高校生百円で、遺品館と庫裡・本堂の展示資料が対象です。墓参だけなら無料です。駐車場は四か所あり、乗用車三十台ほどと大型バスにも対応しています。高崎駅からは路線バスで一時間ほど。車なら国道四百六号を室田から湯殿山隧道の先へ進みます。
毎年五月には小栗まつりが開かれ、倉渕体育館での式典と講演、東善寺での昼市、かるた会、墓参、能や演奏会、餅投げが行われます。斬られた日から数えて百五十九回目の年忌が、二〇二六年の五月でした。
ここまで足を運ぶと分かることがあります。小栗上野介という人は、横須賀や江戸城の話として語られることが多いのですが、その最後の三か月とその後を引き受けたのは、この山の村でした。首を取り返したのも村人、墓を建てたのも村人、碑を建てるために金を出し合ったのも村人です。勝海舟との対比や遣米使節の話とは別に、権田にはもうひとつの小栗上野介がいます。
場所・アクセス・地図
諏訪山東善寺(曹洞宗)/群馬県高崎市倉渕町権田一六九。JR高崎駅から群馬バス権田線でおよそ一時間。車は国道四百六号沿い、駐車場あり。境内に小栗公遺品館、群馬県指定史跡「小栗上野介忠順の墓」。裏山に本墓。
あわせて、終焉の地の碑は倉渕町水沼の烏川のほとり、水沼橋のたもとにあります。国道四百六号の信号「倉渕郵便局前」を左折して二百メートルほどです。
