丁卯【長州藩 砲艦 幕末軍艦】

丁卯
藩名 長州藩
藩主 毛利慶親
船種 砲艦
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 有
丁卯のイメージイラスト
丁卯のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(砲艦・帆走)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません
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所属した長州藩と幕末の動き

この砲艦・丁卯(ていぼう)丸を運用したのは、長州藩(毛利家)です。丁卯丸は慶応三年(丁卯の年、1867)に長州藩が手に入れた洋式軍艦で、第二次長州征伐(四境戦争)や戊辰戦争で藩の海の戦力を担いました。

長州藩は幕末、尊皇攘夷運動の急先鋒でした。文久三年(1863)の下関での外国船砲撃と、翌年の四国連合艦隊による報復(下関戦争)で西洋の実力を思い知り、以後は高杉晋作らが率いる奇兵隊を軸に軍備の近代化へ舵を切ります。やがて薩摩藩と結んだ薩長同盟を足がかりに討幕を主導し、明治維新の原動力となりました。丁卯丸は、長州藩が「攘夷」から「近代海軍」へと転換した歩みを映す一隻です。

幕末軍艦一覧リスト

四境戦争には出ていません

丁卯という名は慶応三年の干支から来ています。つまりこの船が長州へ来たのは、四境戦争が終わって一年半のちのことでした。イギリスのロンドンで慶応三年に造られた船で、原名はヒンダ。長州藩が受け取ったのは慶応四年の正月です。ですから、この船には高杉晋作も坂本龍馬も乗っていません。高杉は慶応三年四月十四日、龍馬は同じ年の十一月十五日に亡くなっており、どちらも船の到着前のことです。

船を売った金で、船を買っています

買い方が変わっています。長州藩は慶応二年、持っていた第二丙寅をグラバーへ十五万ドルで売り、その金を元手に第一丁卯と第ニ丁卯の二隻を合わせて二十五万ドルで造らせる契約を結びました。しかもそこから二万ドルを値引きさせたといいます。船を売って船を買う、という調達の仕方です。

越後の沖で、順動丸を沈めました

慶応四年二月二十日、新政府に徴発されます。五月二十四日、越後の寺泊沖で薩摩藩の乾行丸とともに、旧幕府の順動丸と撃ち合いました。午前七時ごろに砲撃が始まり、弾は順動丸の船首と外輪に当たっています。順動丸は向きを変えて自ら浜へ乗り上げ、午後二時ごろ、積んでいた弾薬が爆発して沈みました。捕られるくらいならという判断だったとみられています。明治二年三月八日には、甲鉄や春日丸など八隻とともに品川を出て函館へ向かい、五月の箱館湾の戦いに加わりました。

艦長に、のちの連合艦隊の人がいます

明治三年に政府へ献納され、五月八日に兵部省のものとなって第一丁卯と改められました。歴代の艦長には、明治四年十一月から翌年二月まで大尉として乗った伊東祐亨と、明治七年八月から二年ほど務めた坪井航三の名があります。伊東はのちの日清戦争で連合艦隊司令長官、坪井は第一遊撃隊の司令官になった人です。明治六年一月十二日に測量の船となり、明治八年八月九日、濃い霧で進路を誤って択捉島の西の岬に乗り上げ、壊れました。

同じ名前の船について

幕末の船は売り買いで持ち主が変わることが多く、同じ名前が別の船に付けられることもありました。当サイトには、丁卯と同じ(または近い)名前の船のページがほかにもあります。

  • 丁卯丸(長州藩・スクーナー級・蒸気内車)—要目が違い、名前が同じ別の船と考えられます
  • 第一丁卯(長州藩・スクーナー級・蒸気内車)—要目が違い、名前が同じ別の船と考えられます
  • 第二丁卯(長州藩・バーク船・蒸気内車)—要目が違い、名前が同じ別の船と考えられます

丁卯を船の型と持ち主から読む

丁卯には機関がなく、帆だけで走る船でした。石炭を積まないぶん、船倉を荷や人に使えます。(帆船と蒸気船の違い)船種は「砲艦」。沿岸を守る小型の砲艦です(軍艦の格)。

当サイトで紹介している長州藩の船は、この丁卯を含めて11隻あり、そのうち帆船は4隻です。同じ長州藩の船には、丁卯丸(スクーナー級)、第二丙寅(輸送船)、第二丁卯(バーク船)、第一丁卯(スクーナー級)、丙辰丸(砲艦)、丙寅丸(バーク船)、壬戌丸(輸送船)、庚申丸(砲艦)などがあります。

持ち主の長州藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。丁卯も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

参考資料:Wikipedia日本語版「丁卯」、Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。

持ち主の長州藩—明治の海軍への献納

船の献納 丁卯は明治三年(1870)、長州藩から明治政府に献納されました。この時期、諸藩はそれぞれ持っていた軍艦を政府に差し出し、それをもとに国の海軍がつくられていきます。明治二年(1869)には兵部省が置かれ、のちに陸軍省・海軍省に分かれました。

大村益次郎の死 新しい国の軍制をつくる中心となったのは、長州藩出身の大村益次郎でした。大村は国民皆兵の軍隊を構想しましたが、明治二年九月、京都で不平士族に襲われ、その傷がもとで十一月に亡くなります。長州の船が国の海軍になっていくころ、その仕組みを考えた人はすでに世を去っていました。

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