大江丸【江戸幕府 輸送船 幕末軍艦】

大江丸
藩名 江戸幕府
藩主 徳川慶喜
船種 輸送船
機関 蒸気内輪
備砲 0門
材質 木製
馬力 120馬力
写真 スケッチ

■ 詳細
1861年アメリカ・ニューヨーク建造しました。原名「ターキャン(太江)」。元治元(1864)年8月横浜で12万$で購入しました。「快速御用達」として仙台藩に貸与されました。

目次

所属した江戸幕府と、海軍のたそがれ

この船・大江丸を運用したのも、江戸幕府です。ペリー来航からわずか十数年、幕府はその海軍とともに歴史の表舞台から退きました。

幕府が育てた艦船と人材の多くは、新政府へと受け継がれ、あるいは榎本武揚とともに箱館で最後の抵抗に加わりました。短命に終わったとはいえ、幕府海軍が築いた技術と人は、明治の日本海軍へと確かに流れ込んでいきます。大江丸は、その幕府海軍のたそがれを見た一隻でした。全体像は幕末の軍艦のページへ。

幕末軍艦一覧リスト

下関を撃った船を、幕府が買いました

この船には、日本人にとって忘れがたい前歴があります。原名はターキャン、揚子江の中国での呼び名です。千八百六十二年にニューヨークで造られた五百十トンの船で、元治元年の夏にイギリス政府が、次いでアメリカが借り上げました。そして元治元年八月の下関戦争で、三十ポンドのパロット砲を積んでフランスの船団の最後尾につき、上陸用の艇を曳き、合わせて十八発を撃っています。相手は長州藩の砲台でした。その同じ年のうちに、この船は幕府へ売られます。長州を撃った船を、幕府が買ったことになります。

大江丸か、太江丸か

船名の表記にも注意が要ります。原名のターキャンは大きな川、つまり揚子江を指す言葉ですので、日本側の名は「太江丸」が正しく、「大江丸」は誤り伝えだという指摘があります。当ページは大江丸としていますが、太江丸と書く資料のほうが筋は通ります。建造の年も、当ページは千八百六十一年としていますが、英語の資料は千八百六十二年です。

周防大島で、母と子が死んでいます

慶応二年六月八日、第二次長州征討の大島口で、この船は富士山丸とともに周防大島の油宇村を撃ちました。このとき母と子が即死したと記録されています。六月十一日には安下庄を攻め、十二日には松山藩の兵が上陸しました。山口県は油宇の浄西寺を四境の役砲撃戦跡として紹介しており、幕府軍の砲撃の跡が石垣にいまも残っています。外国の船として長州を撃ち、幕府の船としてまた長州を撃った船です。

のちに、仙台藩の手元にありました

もう一つ、意外な記録があります。『仙台市史』によれば、慶応四年の時点で仙台藩が持っていた外国船のなかに、借り入れたものとして大江丸と飛龍丸の名があります。奥羽越列藩同盟に加わる藩の手元に、幕府の船が二隻あったことになります。いつ、どういう経緯で借りたのかは分かりませんでした。

軍艦全140隻の一覧を見る

  • URLをコピーしました!
目次