【現地取材】児山城跡を歩く——日光街道の脇で、帰農した武士たちが見た戊辰戦争

栃木をドライブしている途中、案内標識が目に入ったので、たまたま寄った城跡です。下野市下古山の児山城跡。予備知識はまるでありませんでした。

本丸跡。伐採されたばかりで切り株が点々と残り、地面には一面にスミレが咲いていた。右手にはもう民家が並んでいる。
本丸跡。伐採されたばかりで切り株が点々と残り、地面には一面にスミレが咲いていた。右手にはもう民家が並んでいる。

着いてみると、そこは原っぱでした。木が伐られたばかりらしく、切り株が点々と残っています。地面には一面にスミレが咲いていました。右を見れば道路と民家です。ここが城だったと言われても、すぐには像を結びません。

ところが二枚の案内板を読み比べているうちに、この場所がだんだん立体的に見えてきました。

目次

この城跡から、幕末はどう見えるか

断っておくと、児山城は幕末には城ではありません。慶長二年(1597年)の宇都宮氏改易とともに廃されています。

それでもこの台地は、幕末と二つの点で結びついています。

  • 帰農した武士が、村に残りました。城を失った児山氏の家臣たちは、刀を置いて田を耕し、この村に残ったと考えられています。幕末の村を動かした名主や郷士の家は、しばしばこういう出自です
  • 日光街道が、すぐ東を通っています。慶応四年(1868年)の春、宇都宮城をめぐって大鳥圭介・土方歳三らの旧幕府軍と新政府軍がこの街道を行き来しました。城のない村の横を、戊辰戦争が通り過ぎていったことになります

二枚の案内板が、六十年ぶんの違いを見せている

昭和三十六年五月六日指定の、古いほうの案内板。隣に立つ緑の幟には「児山城 山ユリの森」とある。
昭和三十六年五月六日指定の、古いほうの案内板。隣に立つ緑の幟には「児山城 山ユリの森」とある。

古いほうは、栃木県指定史跡の案内板です。指定は昭和三十六年五月六日。書かれているのはこういうことでした。

この城跡は姿川東岸の台地上に、谷や丘陵をたくみに利用して築かれた平城で、本丸の堀と土塁がほぼ完全な形で残されている。土塁の四隅は他の部分に比べて高く築かれていて、櫓があったと考えられる。本城は鎌倉時代後期(十三世紀後半)に宇都宮頼綱の四男・多功宗朝が、その二男(または三男)朝定にこの地を分封し、築城したと伝えられている——。

下野市教育委員会の新しい案内板。縄張図で堀と土塁が色分けされている。手前には「ご城印の販売」の看板。
下野市教育委員会の新しい案内板。縄張図で堀と土塁が色分けされている。手前には「ご城印の販売」の看板。

もう一枚、下野市教育委員会の新しい案内板は、書き方がまるで違いました。

本丸は南北約八十メートル、東西約六十メートルの南北に長い方形。本丸の堀幅は約十五メートル、堀底から土塁上面までの最大比高は現状で約七メートル。城の構造は本丸を囲むように堀や土塁が回字状に配置される輪郭式と考えられ、いまも本丸外側の南側と東側には堀が残る。さらに外側にも堀や土塁が部分的に残されていることや地名などから、城の範囲は南北一キロメートル、東西五百メートルに及ぶと考えられる——。

数字が増えています。「かなりの広さであったと想像されます」が、「南北一キロメートル、東西五百メートル」になりました。六十年のあいだに発掘と調査が進んだということでしょう。

同じことを、私は真壁城跡でも見ました。あちらでも案内板が、伝承の築城者と、発掘から推定される築城者を分けて書いていたのです。相模の丸山城址も同様でした。伝承を消さず、しかし掘って出てきたものだけを根拠に書き足していく。各地の城跡の履歴書が、いま静かに書き換えられているのだと思います。

宇都宮の一族が、南の守りに置かれた

児山城を築いたとされる多功氏は、宇都宮藩の宇都宮氏の一族です。すぐ北には本家筋の多功城がありました。宇都宮の南を固める役目を負っていたのでしょう。

朝定は児山と姓を改め、肥後守を称しました。以後、児山氏は代々「児山三郎左衛門尉」を名乗り、十代ほど続いたと推定されています。

その十代目にあたる児山兼朝は、永禄元年(1558年)、上杉謙信による多功城攻めに参戦して討死しました。そして慶長二年(1597年)の宇都宮氏改易にともなって、児山城も廃されます。

「史跡 児山城跡」の石柱。背後はもう住宅地である。
「史跡 児山城跡」の石柱。背後はもう住宅地である。

城が消えても、人は村に残った

幕末には、ここに城はありません。慶長二年からかぞえて二百七十年、この台地はただの田畑でした。

ただ、興味深い記述があります。児山氏の家臣たちは帰農して児山郷に残ったと考えられている、というのです。

これは、この日より前に歩いた真壁城跡で見たのと同じ構図でした。真壁でも、主家が秋田へ去ったあとに土地へ残った家があり、その家は明治になって焼物を興し、町の初代町長を出しています。

幕末の村を動かしていた名主や郷士の家をたどっていくと、しばしばこういう出自にあたります。戦国に城を失い、刀を置いて田を耕し、そのまま土地の顔役になった家です。城は壊されて消えますが、人はそのまま村に残る。城跡めぐりをしていると城の側からばかり歴史を見てしまいますが、この台地に立つと、残ったのは人のほうだったと分かります。

日光街道が、すぐ横を通っている

児山城跡のすぐ東を、日光街道が南北に走っています。石橋宿です。

慶応四年(1868年)の春、この街道は戦争の通り道になりました。宇都宮城をめぐって大鳥圭介・土方歳三らの旧幕府軍と新政府軍が激突し、城は五日間に二度も主が変わっています。両軍はこの街道を行き来しました。宇都宮城と太平山を歩いたときに見たのが、その戦の跡です。

旧幕府軍はそのあと壬生藩の壬生城を攻めて撃退され、今市から日光へ抜けていきました。城のない児山の村の横を、戊辰戦争が通り過ぎていったことになります。帰農した家の子孫たちは、街道を行く軍勢を見ていたはずです。

いま、地元が守っている

古い案内板の隣に、緑の幟が何本も立っていました。「児山城 山ユリの森」。とちぎの元気な森づくり県民税で整備された、と書かれています。立てているのは「児山城守り隊」。

新しい案内板の足元には「ご城印の販売」の看板が出ていました。

本丸跡の木が伐られたばかりだったのは、たまたまではないのでしょう。木を伐れば、堀と土塁の形が見えます。私が訪ねたのは、ちょうどその作業が終わった直後でした。おかげで、輪郭式と書かれた本丸の形が、素人の目にもよく分かりました。

国の史跡でも有名な城跡でもありません。観光バスは来ません。それでも誰かが草を刈り、木を伐り、幟を立て、御城印を作っている。歴史が残るというのは、たぶんこういうことの積み重ねなのだと思います。たまたま通りかかっただけの旅行者が、こうして書き残す気になる程度には、ここは手入れされていました。

【児山城跡・場所・アクセス・地図】

児山城跡は栃木県下野市下古山。JR宇都宮線・自治医大駅から東へ徒歩でおよそ二十分、車なら国道4号(日光街道)沿いから入ります。駐車場らしい駐車場はないので、路肩の停め方には配慮がいります。

本丸の堀と土塁は歩いて一周できます。所要は十五分ほど。栃木県指定史跡です。近隣には多功城跡、そして北へ向かえば宇都宮城があります。

この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 下野市教育委員会(現地解説板の設置者)

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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