【現地取材】田中城跡を歩く——直径六百メートルの円い城と、房総へ移された四つの家

田中城三日月堀出曲輪の説明板 円形の縄張図が描かれている

静岡県藤枝市の田中城跡。ここは全国の城のなかでも、かなり変わった城です。縄張が円い。

そして幕末の話をすれば、この城の最後の藩主もまた、沼津掛川浜松と同じ運命をたどりました。駿河・遠江の譜代は、そろって房総へ送られたのです。

「田中城 大手二之門跡」の標柱と説明板。いまは住宅地の一角である
「田中城 大手二之門跡」の標柱と説明板。いまは住宅地の一角である
目次

直径六百メートルの、円い城

三日月堀出曲輪の説明板。描かれた縄張図が、まぎれもない同心円である
三日月堀出曲輪の説明板。描かれた縄張図が、まぎれもない同心円である

説明板に描かれた縄張図を見て、思わず声が出ました。本丸を中心に、直径約六百メートルの同心円状に、三重の堀がめぐっている。四角い曲輪を組み合わせるのが普通の城のなかで、これは異例です。

この形を作ったのは武田です。永禄十三年(1570)正月、武田信玄がこの城を攻め落とし、馬場信春が改修して「田中城」と改名しました。その後、武田家臣の山県昌景が入城しています。

そして二の丸・三の丸の外には計六か所の丸馬出しが設けられていました。丸馬出しは武田流築城術の代名詞で、沼津の三枚橋城も武田勝頼が築いた城でした。駿河には武田の城が並んでいたわけです。

説明板の名前にある「三日月堀」も、丸馬出しの前面に掘られる三日月形の堀のこと。武田の設計思想が、地名として現代まで残っています。

家康が最後に立ち寄った城

もうひとつ、この城には有名な逸話があります。

元和二年(1616)正月、徳川家康は田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食べました。そしてその後に体調を崩し、四月に世を去ります。これが家康の死因だとする説があるわけです。

実際の死因は胃がんとする見方が有力ですが、いずれにせよ家康が最後に鷹狩りで立ち寄った城のひとつがここでした。浜松城で十七年を過ごした男が、最晩年に立ち寄ったのも駿河の城だった。

本多正訥と、房総への移住

本丸跡への案内標柱。矢印の先に、いまは小学校が建つ
本丸跡への案内標柱。矢印の先に、いまは小学校が建つ

江戸期の田中城は、享保十五年(1730)に本多正矩が四万石で封じられて以降、明治維新まで本多家が治めました。百三十年以上、同じ家が続いた安定した藩です。

そして最後の藩主が本多正訥(ほんだ まさもり)田中藩四万石の当主として幕末を迎えます。

明治元年(1868)、正訥は安房長尾藩へ移封されました。徳川家達の駿府藩七十万石が入るための場所空けです。

これで四つそろいました。

沼津の水野家 → 上総菊間
田中の本多家 → 安房長尾
掛川の太田家 → 上総柴山(松尾)
浜松の井上家 → 上総鶴舞

東海道を西から東へ並ぶ四つの城が、明治元年に一斉に空になり、そのまま房総半島へ移されている。徳川宗家一家を駿河へ入れるために、これだけの家が動いたわけです。

そして移された先で、彼らはそれぞれの明治を始めました。松尾藩では太田資美が西洋稜堡式の要塞を築こうとして廃藩置県に間に合わず、長尾藩の本多正訥もまた、見知らぬ土地で藩を立て直さなければなりませんでした。

そして、櫓を見つけられなかった話

城跡の一角にかかる木橋。この日、私はここまでで満足してしまった
城跡の一角にかかる木橋。この日、私はここまでで満足してしまった

ここで白状します。田中城には、本丸櫓が現存しています。それを私は見ずに帰りました。

この櫓は明治三年(1870)に払い下げられ、長く民間にあったものが、平成八年(1996)に「史跡田中城下屋敷」へ移築されました。田中城で唯一残った建物です。

下屋敷は本丸跡から少し離れた場所にあり、庭園と一緒に整備されています。ところが私は、大手二之門跡の標柱を見て、三日月堀の説明板を読んで、本丸跡の案内板まで来たところで満足してしまった。いちばん見るべきものが、少し離れた別の場所にあったのです。

これで三度目です。掛川城では文久元年再建の二の丸御殿を見ずに帰り、松坂城では御城番屋敷を見落とし、そして田中城では本丸櫓。私は「城跡の中心」ばかり見て、その周縁にある本物を取りこぼす癖があるようです。

城歩きをされる方への教訓として書いておきます。その城で唯一残った建物は、たいてい城跡の外にあります。移築されているからです。行く前に「現存建造物はどこか」を調べておくと、私のような後悔をしなくて済みます。

歩いてみて

田中城跡は、いま完全に市街地です。本丸跡には小学校が建ち、堀は埋められ、道路になっている。標柱と説明板を追いかけて歩くタイプの城跡で、正直、見応えという点では厳しい。

それでも面白かったのは、歩いていると道が妙に曲がることでした。直線のはずの住宅地の道が、ゆるやかに弧を描く。あれは埋められた円形の堀の跡なのだと思います。四百五十年前に武田が掘った円が、いまも道路の形として残っている。

城が消えても、地形と道は残る。寒河江城跡で「城が消えてもその土地がなぜ城だったのかは地形として生き残る」と書きましたが、田中城の場合は設計そのものが道路として生き残っていたわけです。

次に行くときは、まっすぐ下屋敷へ向かいます。

アクセスと地図

田中城跡/静岡県藤枝市田中。JR西焼津駅から徒歩約二十分。本丸跡は西益津小学校の敷地で、周囲に大手二之門跡・三日月堀出曲輪などの標柱と説明板が点在しています。住宅地のなかを標柱を追って歩く形になるので、事前に位置を確認しておくと効率的です。

史跡 田中城下屋敷/藤枝市田中三丁目。本丸跡から徒歩数分。移築現存する本丸櫓があるのはこちらです。庭園と一緒に整備され、無料で公開されています。田中城へ行くなら、まずここへ(私はここで失敗しました)。

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 現地の案内板「田中城 大手二之門跡」

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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