佐佐木高行 宛
| 原文 |
| 只今戦争相すみ候処、然るに岩弥、佐栄兼て御案内の通りに、兵機も無之候へば無余儀敗走に及び候。独り菅、渡辺の陣、敵軍あへて近寄り能はず、唯今一とかけ合はせは仕り候。当る所ひらき申候。秘かに思ふ、富国強兵、且雄将のはたらき、東夷皆イウタンを落し申さんと奉存候。卯九月梅拝佐々木先生 |
| 現代文 |
| ただいま「戦争」(酒宴)が済んだところです。岩崎弥太郎(土佐藩郷士)、佐々木栄(海援隊士)かねてご案内の通り、兵器もなければ敗走に及ぶと思います。菅(菅野覚兵衛:海援隊士)、渡辺(渡辺剛八:海援隊士)の陣にあえて相手が近寄れば、能もなく、只今一掛け合わせ出来る。また、当たるところ開くと言う。密かに思うに、富国強兵、かつ、勇将の働き、東夷(中国方面の民族の名称)みんなイウタンを落し(溜飲を下げる:すっきりする)と言うでしょう。※西洋に浸食されているアジアがこのように兵が強くなり富国強兵がなればアジア民族は憂鬱な気分が晴れるでしょう。1867年9月梅(龍馬変名)佐々木先生(佐佐木高行:土佐藩士) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
土佐藩の佐佐木高行へ宛てた短い手紙です。文面は「只今戦争相すみ候」と戦の報告のように書かれていますが、宮地佐一郎編『龍馬の手紙』が同じ九月初旬に並べる佐佐木あての手紙と読み比べると、酒宴を合戦にたとえた戯れの文と読めます。岩崎弥太郎や佐々木栄は早々に「敗走」し、菅野覚兵衛と渡辺剛八の陣だけが持ちこたえた、と宴席の様子を戦記風に伝えています。
宛先「佐佐木高行」とはどんな人物か
土佐藩士で、大政奉還を支えた同志、のちの明治政府の要人です。龍馬と親しく交わり、軍備の相談まで打ち明けられる間柄でした。ちなみに文中の岩崎弥太郎は、のちに三菱を興す人物です。
この手紙が書かれたころ
大政奉還を目指す一方で、万一の武力衝突にも備えて兵器の調達に動いていたころの龍馬です。平和的な政権返上を願いながらも、現実の力の裏付けを欠かさぬ周到さがうかがえます。薩摩や長州が挙兵の準備を進め、倒幕の機運が頂点に達していました。大政奉還か武力倒幕か―どちらに転んでもよいよう、各勢力は軍備を整えていました。土佐藩は大政奉還の建白を進める一方、いざという時に備えて兵器を集めていました。龍馬はその調達に深く関わり、藩の備えを支えていました。
「戦争」は宴席のたとえ、九月初旬の手紙との響き合い
手紙の日付は「卯九月」だけで、宮地佐一郎はこれを慶応三年九月十日と比定し、「野島寅猪文書」として収めています。十日という日は宮地の比定によります。宮地は本文の「岩弥」を岩崎弥太郎、「佐栄」を佐々木栄、「菅」を菅野覚兵衛、「渡辺」を剛八と補っています。
宮地が同じ月の初旬に置く佐々木宛の手紙を並べると、この「戦争」の読み方が見えてきます。そこでは芸妓たちを「女軍」、長府から来た女性を「尼将軍」と呼び、酒席に誘う様子を合戦になぞらえています。ある一通には、集まりの目的は佐々木の「病苦をなぐさめん事」だとはっきり書かれています。同じ調子で読むと、岩崎や佐々木栄が早々に「敗走」し、菅野と渡辺だけが持ちこたえたという本文も、宴席の顛末を戦記風に報告したものと読めます。宮地が九月六日とする手紙には「手銃千挺」を買い入れる話が別に出てくるので、銃の取引とこの戯文は分けて読むのが無難です。
同じころの長崎—イカルス号事件の決着
取り調べの結末 慶応三年(1867)九月、長崎でのイカルス号事件の取り調べは、海援隊の者が犯人だという証拠は見つからないまま、ひとまず決着しました。長崎奉行所とイギリス領事、土佐藩の三者が立ち会った審理でも、疑いを裏づけるものは出なかったのです。龍馬と佐佐木高行は、これで海援隊の名誉をひとまず守ったことになります。
その次の仕事 事件の始末がつくと、龍馬はすぐに次の仕事に取りかかりました。土佐藩のために洋式銃を買い入れ、船に積んで土佐へ運ぶことです。佐佐木に宛てたこの手紙は、その準備の最中のものでした。
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