佐佐木高行 宛
| 原文 |
| 御書拝見仕候。明日西役所え云云の由、早々参上の筈ニ候得ども、蒸気船借入且手銃千挺取入申候て早々出帆と決心仕候ニ付、通弁者其外、人数をそろへ異館へ参候所ナリ。今宵彼方より帰次第御旅宿まで参上仕候。謹言。六日佐々木先生楳拝左右 |
| 現代文 |
| お手紙拝見しました。明日は西役所へ、とのことで、早々に伺うはずですが、蒸気船の借入且つ、鉄砲千挺取り揃えて早々に出航と決めした。通訳のほか、人数を揃えて異館(グラバー商会?)へ向かうところです。今宵そこから帰り次第お宿までお伺いします。6日佐々木先生(佐佐木高行:土佐藩士) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「明日は西役所へ、とのことです。蒸気船を借り入れ、鉄砲千挺を取り揃えて早々に出帆すると決心しました。通訳らを連れて異館(グラバー商会とみられる)へ向かうところだ」という、武器と船の調達を報告する緊迫した手紙です。六日付。龍馬が長崎で大量の銃を諸藩のために買い付けていた、慶応年間の生々しい一場面です。
宛先「佐佐木高行」とは

佐佐木高行は土佐藩士で、海援隊を監督する立場にありました。武器や船の調達は藩の軍備に直結する重大事であり、佐佐木への逐一の報告は欠かせないものでした。
この手紙が書かれたころ
長崎の外国商館(グラバー商会など)を通じて蒸気船や銃を買い付け、諸藩の武装を支えていました。海援隊は、いわば武器を扱う商社の顔も持っていたのです。薩摩・長州をはじめ諸藩は競って西洋式の銃を買い集め、来るべき戦いに備えていました。長崎はその一大市場であり、龍馬はその只中にいました。土佐藩も倒幕と軍備の近代化へと動き、龍馬の調達力を頼りにしました。鉄砲千挺は藩の戦力を左右する大商いだったのです。
蒸気船を借り、小銃千挺を積んで出る
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年九月六日のものとしています。明日は西役所へとのことだが、蒸気船を借り入れ、小銃千挺を仕入れて急いで出帆すると決めたので、通弁ほか人数をそろえて外国人の館へ行くところだ、今夜戻りしだい宿へ伺う—と佐々木 高行に書いています。原本は早稲田大学図書館にあります。
書簡に船の名はありません。けれども京都国立博物館の解説によれば、この月の末に龍馬は安芸藩の船・震天丸を借りて、ライフル千挺を土佐へ運んでいます。海援隊の商事の記録にも、オランダ商人ハットマンから千三百挺を買い入れた取引が残っています。この手紙の「蒸気船」と「手銃千挺」がそれにあたると考えるのが自然ですが、書簡だけから言い切れることではありません。イカルス号事件の談判が片づくと同時に、龍馬は銃を積んで土佐へ向かおうとしていました。大政奉還の一か月前のことです。
同じころの長崎—土佐藩のための洋式銃
龍馬の買い付け 慶応三年(1867)九月、龍馬は長崎でオランダ商人ハルトマンからライフル銃千三百挺を買い入れる話をまとめました。代金は土佐藩が後で支払う約束です。龍馬はこの銃を芸州藩から借りた震天丸に積み、九月の下旬に土佐へ運び込みました。大政奉還を進めるにしても、万一の戦いに備えて土佐藩の軍備を整えておく必要があると考えたのです。
宛名の佐佐木高行 この買い付けには、長崎にいた土佐藩大目付の佐佐木高行も関わっていました。藩の重役と脱藩浪士だった龍馬が、藩の軍備のために協力していることに、この一年の土佐藩と龍馬の関係の変化がよく表れています。
慶応三年九月はじめ、銃を土佐へ
千挺の小銃
この手紙で龍馬は、蒸気船を借りて小銃千挺をそろえ、すぐにも出航すると佐佐木高行に知らせています。薩土盟約が崩れ、武力による倒幕の動きが強まるなかで、龍馬は土佐藩にも兵の備えが要ると考えていました。龍馬はこのあと芸州藩の船を借りて銃を積み、九月下旬に土佐の浦戸へ入ります。
土佐藩の二つの道
このころ土佐藩には、二つの流れがありました。一つは、後藤象二郎が進める大政奉還の建白です。幕府に自ら政権を返させ、戦をせずに新しい政治の形をつくろうとする道でした。もう一つは、乾退助(板垣退助)らが薩摩と結んで進めようとした、武力による倒幕の道です。龍馬は建白を後押ししながら、いざという時に備えて銃を土佐へ運びました。
家族との再会へ
銃を運ぶこの航海は、龍馬にとって五年ぶりの帰郷にもなりました。高知では兄の権平、姉の乙女、姪の春猪たちが龍馬を迎えています。十月九日付で権平に宛てた手紙が、故郷へ出した最後の手紙とされます。
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