伊藤助太夫 宛(慶応三年五月二十八日・90通目) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

伊藤助太夫 宛

原文
其後ハ益御勇壮可被成御座奉大賀候。然ニ彼紀州の船の儀論段々申上り、明日か今日か戦争とヒシメキ候中、後藤象二郎も大憤発ニてともに骨折居申候。此頃長崎中の商人小どもニ至るまで、唯紀州をうての紀州の船をとれのと、の〃しり候よふ相成、知らぬ人まで戦をす〃めに参り申候。紀州とハ日々談論とふ々やりつけ今朝より薩州へたのみてわびを申出候得ども、是迄段々無礼致候事故、私もゆるし不申、薩州よりハイロハ丸の船代又中荷物代を立替候て、其上紀州の奉行が御宿へまで出し、御あいさつ致候得バよかろふなど申候ニ付、私しハそふすれバ一分も立候得ども、曽而鞆の港へすておかれ候事ハ、是ハ紀州より土佐の士お、はづかしめ候事故に、私ニあいさつ致した位でわすみ不申、主人土佐守へ御あいさつ被成べしなど、今日ハ申居候、何レ此儀も又打こわれたれバ、一戦ニて候得ども、なにぶんおもしろき御事ニて候。先ハ御きづかい可被下と存じ、今のま〃早々申上候。頓首。廿八日龍九三先生御直披才谷
現代文
ますますご健勝のようでなによりです。紀州藩との船の話ですが段々と進み、明日か、今日は戦争かとひしめきあってます。後藤象二郎も大いに奮い立って、ともに骨を折っています。長崎の商人どもに至るまで、ただ紀州藩を打てだの紀州藩の船を乗っ取れだのとののしり合ってます。知らぬ人まで戦をすすめに来ます。紀州藩とは日々談論をして、とうとうやりこめ、今朝から紀州側が薩摩藩に頼んで詫びを申し出てきましたが、これまで度々無礼をされたので、私も許しませんでした。薩摩藩からは、(紀州が)いろは丸の船代と積荷の代金を立て替えて支払い、そのうえ紀州の奉行が宿まで出向いて挨拶すればよかろう、などと言ってきましたが、私個人はそれでいいとしても、鞆の港へ捨て置かれたことにおいては、これは紀州藩が土佐藩の侍を辱めたことになるため、私へ挨拶しただけで済むことではないですよ、と言い、主人の土佐守(藩主・山内豊範)へご挨拶なさるべきだと今日言いました。いずれにしても、これでまた話がこじれれば一戦するのもまたおもしろいことです。まずは、お気づかい下されていると思い、今のまま早々にお伝え申し上げます。28日龍馬九三先生(伊藤助太夫)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

下関の伊藤助太夫へ宛て、いろは丸事件の交渉がいよいよ大詰めを迎えた様子を伝えた手紙です。紀州藩との話は日を追って進み、今日にも戦かとひしめき合い、後藤象二郎も大いに奮い立ってともに骨を折り、長崎の商人までが「紀州を打て」といきり立っている―そんな熱気を、臨場感たっぷりに描いています。大藩を相手に世論まで巻き込んで戦う龍馬の姿がうかがえます。

宛先「伊藤助太夫」とはどんな人物か

伊藤助太夫
坂本龍馬(左)と伊藤助太夫(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

下関の豪商で、龍馬夫妻が身を寄せた宿の主人です。龍馬はこの信頼する協力者に、交渉の生々しい進み具合を逐一伝えていました。

この手紙が書かれたころ

海援隊隊長として、大藩・紀州を相手取った賠償交渉の渦中にいたころの龍馬です。論理と世論を巧みに用いて、御三家の一つを相手に一歩も引かず渡り合っていました。倒幕へ向けて政局が緊迫するなか、万国公法に基づく交渉や世論の力が、紛争解決の新しい手段として力を持ちはじめていました。時代は着実に近代へと動いていました。後藤象二郎が交渉の前面に立ち、土佐藩は海援隊とともに紀州藩と対峙しました。この一件での勝利は、土佐藩の中央での存在感を大きく高めることになります。

「主人土佐守へ御あいさつ」、詫びを退けた前日と、決着した翌日

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では、この手紙は第七十六番「慶応三年五月二十八日 伊藤助太夫あて」です。本文の日付は「廿八日」だけで、年月は宮地の比定によります。宮地本では同じ二十八日付で伊藤あての手紙がほかに二通あり、どちらも土佐商会の曽根拙蔵を差し向けるので、下関の商人らに引き合わせてほしいと頼む内容です。三通とも底本の注記では伊藤家文書とされています。いろは丸は伊予大洲藩から借りた船で、鞆の沖で沈んでいます。

この日の龍馬は、薩摩を通じた紀州の詫びを受けず、自分への挨拶では足りない、主君である土佐守にこそ詫びるべきだと突っぱねていました。翌二十九日付で小谷耕蔵と渡辺剛八に宛てた第七十九番の手紙では、薩摩の五代才助の仲立ちにより、紀州の「官長」が後藤象二郎のもとへ出向いて重ねて詫びたので許したこと、積荷から水夫や旅人の手回り品まで一切を償う取り決めになったことを知らせています。

同じころの長崎—小曽根家と龍馬

長崎の豪商・小曽根家 長崎の龍馬と海援隊を支えた商人の一人が、小曽根家です。当主の小曽根乾堂は書や篆刻にもすぐれた文化人で、その一族は亀山社中のころから龍馬たちに場所や資金を提供しました。弟の小曽根英四郎は海援隊にも加わっています。いろは丸の談判が大詰めを迎えたこの五月の終わりにも、龍馬は小曽根家と下関の伊藤家とを結んで、人と手紙を行き来させていました。

長崎と下関 長崎の小曽根家、下関の伊藤家。龍馬の仕事は、こうした港町の商人たちの協力なしには成り立ちませんでした。武士の身分をこえて商人と手を結ぶところに、龍馬の新しさがありました。

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