伊藤助太夫 宛
| 原文 |
| 此度曽根拙蔵お土佐商会より御在番役所までさし立申候。宜御引合セ可被遣候。何分飯田先生にもよろしく御相談可被遣候。草々頓首。廿八日龍九三様才谷御直披 |
| 現代文 |
| この度、小曽根清三郎(長崎の商人)を土佐商会から下関の在番役所まで向かわせます。宜しくお引き合わせの上お願い致します。何分飯田先生(不明)にも宜しくご相談して下さい。28日龍馬九三様(伊藤助太夫)才谷(変名) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「小曽根清三郎を土佐商会から下関の在番役所まで向かわせるので、引き合わせてほしい」という、人物を紹介する商用の短信です。土佐商会は長崎に置かれた土佐藩の交易機関で、海援隊とも深く関わりました。日付は「二十八日」のみで年は不明ですが、龍馬が長崎と下関を結ぶ交易のネットワークを動かしていた慶応年間のものとみられます。
宛先「伊藤助太夫」とは
伊藤助太夫は下関の豪商・船問屋で、龍馬の支援者であると同時に、海運や交易の実務でも頼りにされた人物です。人と物を動かす龍馬の事業に欠かせない協力者でした。
この手紙が書かれたころ
海援隊は物産の運搬や売買で資金を稼ぎ、その利で政治活動を支えていました。人を引き合わせ、商いの流れを作ることも、龍馬の重要な仕事でした。長崎・下関・上方を結ぶ海の商路が、諸藩の富国と武備を陰で支えていました。交易は政局と分かちがたく結びついていたのです。土佐藩は長崎に土佐商会を置き、後藤象二郎や岩崎弥太郎らが交易を担いました。海援隊はその一翼であり、のちの三菱へと続く系譜の源流にもあたります。
談判が続くなか、土佐商会の人を送り出す
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年五月二十八日のものとしています。長崎で紀州藩との伊呂波丸の談判が始まってから、二週間ほどたったころです。このたび土佐商会から曽根拙蔵を在番役所へ差し向けるので、よろしく引き合わせてほしい、飯田先生にもよろしく相談してほしい—下関の伊藤九三に宛てて、そう頼んでいます。
曽根拙蔵が土佐商会の人だということは文面から分かりますが、それ以上のこと、また飯田先生が誰なのかはわかっていません。ただ、この手紙からは、龍馬が土佐商会の人員を下関の役所へつなぐ役目を担っていたことが読み取れます。土佐商会を預かっていたのは岩崎 弥太郎で、この月の十七日付の三吉慎蔵宛の手紙にも、土佐商会の者を一人船に乗せて役所に引き合わせると書かれています。長崎の藩の商会と下関の伊藤家とを結ぶ、龍馬のもう一つの仕事です。
同じころの長崎—浦上のキリシタン
長崎では この手紙の半月ほどのち、慶応三年(1867)六月十四日、長崎奉行所は浦上村の隠れキリシタンの人々を捕らえました。二年前に大浦天主堂で信仰を打ち明けた浦上の人々が、寺の葬式を拒んだことがきっかけです。「浦上四番崩れ」と呼ばれるこの事件は、各国の公使から強い抗議を受け、明治になっても続く大きな問題となりました。
龍馬のまわりでは いろは丸の談判をまとめた龍馬は、六月に入ると後藤象二郎とともに京都へ向かう準備を進めていました。長崎の町は、外国との交易と、信仰をめぐる緊張とを同時に抱えていました。
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