印藤聿 宛(慶応二年二月三日) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

印藤聿 宛

原文
三吉兄ハ此頃御同行ニて薩邸ニ入候間、御安心可被遣候。然ニ去月伏見船宿寺田屋ニて一宿仕候節、幕府人数と一戦争仕候。其故ハ此度参ル寺内新右門参候間、御聞取奉願候。餘ハ拝顔の上、万々。二月三日謹言。印藤様龍拝
現代文
三吉(長府藩士三吉慎蔵は龍馬の護衛)は一緒に薩摩藩邸に入りましたのでご安心下さい。※長府藩は長州藩の支藩(支藩とは今で言う子会社のようなもの)されど先月、伏見の寺田屋で幕府の役人たちに襲撃され、一戦交えました。なので、今回は寺内新右門(海援隊士新宮馬之助のこと)がそちらへ行きますので話を聞いて下さい。あとはお会いして話しましょう。2月3日印藤様(長府藩士)龍馬より

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「三吉慎蔵とともに薩摩藩邸に入ったので安心してほしい。じつは先月、伏見の寺田屋で幕府の役人数人に襲われ、一戦交えました。詳しくは、今回そちらへ行く寺内新右門(海援隊士・新宮馬之助)から聞いてほしい」という手紙です。二月三日付。これは慶応二年(1866)一月に龍馬が襲撃された寺田屋事件の直後に書かれた、生々しい報告です。

宛先「印藤聿」とは

坂本龍馬の肖像写真
この手紙の書き手、坂本龍馬(パブリックドメイン)

印藤聿(いんどう いつ)は長府藩士で、龍馬の下関での協力者でした。長府は長州の支藩で、龍馬の西国での活動を支える拠点となっていました。

この手紙が書かれたころ

寺田屋で危うく命を落としかけ、手に深い傷を負いながら薩摩藩邸にかくまわれていました。三吉慎蔵の奮戦と薩摩の庇護に救われた、その直後の時期です。寺田屋事件は、薩長同盟が成立した慶応二年正月の直後に起きました。倒幕勢力の要である龍馬を、幕府は執拗に狙っていたのです。土佐脱藩の龍馬を守ったのは、長府の三吉慎蔵と薩摩藩でした。藩を越えた同志のつながりが、龍馬の命を支えていました。

十日前の出来事を、こう書いています

この手紙の日付は慶応二年二月三日。寺田屋で襲われたのが正月二十三日の深夜ですから、まだ十日ほどしか経っていません。傷の癒えないうちに書かれた一通です。

襲ったのは伏見奉行所の捕り方で、人数は三十人ほどと伝えられます。三吉慎蔵は手槍で応戦し、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃で撃ち返しました。高知県立坂本龍馬記念館には、そのときの拳銃と同型の実物として、スミス&ウエッソンⅡ型三十二口径が所蔵されています。六連発で全長は二十七センチ。同じ型の別の個体ですが、手に収まる大きさが分かります。

龍馬の傷は、資料によって「両手の親指」「左手」「左の腕」と分かれます。右手とする説は見当たりませんでした。二人は裏口から逃れて材木の納屋に身を隠し、三吉慎蔵が単身で薩摩藩邸まで走って救援を求めます。薩摩の舟に救い出されて藩邸へ入ったのが翌二十四日。手紙の「薩邸に入候間、御安心可被遣候」は、その状態を指しています。

宛先の名の読み方も、表記も揺れています

印藤聿は長府藩士です。商人になるのは維新後で、明治三、四年ごろに士籍を返上して「豊永長吉」と改名し、のちに衆議院議員も一期務めました。慶応元年には長府藩の報国隊の結成に参画し、軍監を兼ねています。

名前の読みは「いんどう いつ」とするものと「いんどう のぼる」とするものがあり、公的な資料では確認できません。宮地佐一郎『龍馬の手紙』はこの人を「印藤肇」と翻刻しており、字そのものが資料で違っています。

高知県立坂本龍馬記念館は、印藤聿・伊藤九三(助太夫)・三吉慎蔵の三人を「龍馬が心から信頼した友人」として紹介しています。三吉慎蔵の日記には「我が藩士の龍馬に交わるは印藤聿を最初とす」という一節があり、龍馬と長府藩をつないだ最初の人がこの印藤でした。のちに龍馬暗殺の報せをお龍に伝えたのも、印藤だったと記念館は記しています。

「寺内新右門」については、新宮馬之助の変名として資料に見えるのは「寺内新左衛門」「寺内信左衛門」で、「新右門」という表記そのものの裏づけは取れませんでした。寺内姓を名乗った海援隊士はほかに見当たらないので同じ人と見てよさそうですが、名の字は揺れています。

命の恩人、三吉慎蔵

三吉慎蔵は天保二年の生まれで、明治三十四年に七十一歳で亡くなりました。長府藩士で槍術の達人です。寺田屋の働きで長州藩主から刀を、長府藩主から二十石の加増を受けました。

維新後は豊浦藩の権大参事、廃藩置県のあとは宮内省御用掛として北白川宮家の家扶、のち家令を務め、明治二十三年に辞して長府で晩年を過ごしています。龍馬は慶応三年五月八日、この三吉に宛てて、万一のときはお龍を土佐へ送り届けてほしいと頼む書状を出しました。その半年後に、その「万一」が起きます。

この手紙の翌月、二人は薩摩へ旅立ちます

手紙を書いたおよそ四週間後の二月二十九日、龍馬はお龍を連れて京都を発ちました。薩摩藩の船に便乗し、三月十日に鹿児島着。三月十六日に塩浸温泉へ向かい、翌十七日から十一泊して手の傷を治療しています。三月二十九日には高千穂へ登りました。日本で最初の新婚旅行と呼ばれる旅ですが、もともとは傷の療養です。薩摩での滞在は八十日あまりに及びました。

なお、この慶応二年二月三日付の手紙そのものの所蔵先は、わかっていません。京都大学が所蔵する印藤宛の龍馬書状は慶応元年十二月二十九日付の別の一通で、乙丑丸の契約改訂や木戸孝允の上京について書かれたものです。

同じころの京都—同盟の「裏書」

京都では この手紙の二日後の慶応二年(1866)二月五日、龍馬は桂小五郎(木戸孝允)が書きとめた薩長同盟の六か条の書面の裏に、朱で「表に書かれた六条は、小松・西郷・木戸と私が同席して話し合ったことで、少しも相違はない」と書き添えました。口約束だった同盟の内容を、立会人として保証したのです。

龍馬の身の上 このころの龍馬は、寺田屋で受けた手の傷を、京都の薩摩藩邸で手当てしているさなかでした。長府藩士の印藤聿に宛てたこの手紙は、同盟の成立と遭難という、龍馬の人生のなかでもとりわけ大きな出来事が続いた直後のものです。

坂本龍馬の手紙を時代順に読む(一覧の32通目/全135通)

◀ 前の手紙:池内蔵太家族 宛
次の手紙 ▶:木戸孝允 宛

手紙の一覧に戻る / 亀山社中と海援隊 / 海援隊士一覧 / 近江屋跡(現地取材)

坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

坂本龍馬の手紙の一覧を見る ›

  • URLをコピーしました!
目次