木戸孝允 宛
| 原文 |
| 表に御記被成候六条ハ、小、西、両氏及老兄、龍等も御同席ニて談論セシ所ニて、毛も相違無之候。後来といへども決して変り候事無之ハ、神明の知る所ニ御座候。丙寅二月五日坂本龍 |
| 現代文 |
| 表に記載されたことは、小松帯刀、西郷吉之助、両氏及び桂小五郎、龍馬も同席の上で合意したことで、少しもそれに間違いございません。今後とも決して心変わりしないと、神に誓います。丙寅(1866年)2月5日坂本龍馬※一介の浪士坂本竜馬が薩摩・長州の秘密同盟の書面の裏面に、このような保証人となること記したこと自体が奇跡であり、龍馬が今なお高い評価を受けている所以である。 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
慶応二年(1866)二月五日、龍馬が桂小五郎(木戸孝允)に宛てて記した、薩長同盟の内容を保証する裏書です。桂は前月に京都で結ばれた同盟の六か条を書き出し、後日の証として龍馬に確認を求めました。龍馬はその裏に「六か条は小松・西郷と桂、龍馬も同席で合意したもので、寸分の相違もありません。今後も変わらぬと神に誓う」と朱で書き添えています。口約束になりがちな密約を、第三者の龍馬が文書で担保した点に、この手紙の大きな意味があります。
宛先「木戸孝允」とは

木戸孝允(桂小五郎)は長州を代表する指導者で、のちに維新三傑と称されました。慎重で理知的な人物として知られ、龍馬とは厚い信頼で結ばれていました。
この手紙が書かれたころ
薩摩にも長州にも属さない立場だったからこそ、龍馬は両藩に信頼される「証人」たりえました。中立の周旋家としての真価が、この一通に凝縮されています。この裏書が残されたことで、後年、薩長同盟が確かに存在したことが証明されました。歴史の証拠を書き残した一通でもあります。土佐脱藩という自由な立場が、龍馬を歴史の転換点に立たせました。藩を離れたことが、かえって大きな役割を彼に与えたのです。
朱の色で書かれています
この裏書は宮内庁書陵部が所蔵しています。名称は「尺牘(龍馬裏書)」、木戸家文書のうちの一軸で、全長は三メートル五十センチほど。宮内庁の説明は「翌月、龍馬が表の内容に相違ないと、朱書で返答したもの」と明記しており、龍馬の文字は墨ではなく朱で書かれています。
高知県立坂本龍馬記念館は長くレプリカを常設していましたが、開館三十周年の令和三年秋に原本が高知県で初めて公開されました。龍馬の生まれた県に、その肉筆が来るまでに百五十年かかったことになります。
六か条に、「ともに戦う」とは書かれていません
桂小五郎が六か条を書き出して龍馬へ送ったのは慶応二年正月二十三日。龍馬が裏面に朱で答えたのが二月五日です。その六か条を要約すると、こうなります。
一つ、戦いになったときは長州へ二千余の兵を急ぎ差し向け、京と大坂を固めること。二つ、戦いが有利に運んだ折には朝廷へ申し上げて尽力すること。三つ、万一負け色になっても一年や半年で壊滅することはないから、その間に必ず尽力すること。四つ、幕兵が東へ帰ったときには朝廷へ申し上げ、長州の冤罪を解くよう尽力すること。五つ、一橋・会津・桑名が朝廷を擁して周旋の道を遮るなら、決戦に及ぶほかないこと。六つ、冤罪が許されたうえは双方が誠心をもって皇国のために尽くすこと。
読み返すと分かるのですが、「薩摩と長州がともに幕府と戦う」という条文はありません。中身は、薩摩が長州の冤罪を解くために朝廷へ働きかけると約束する、その手順書です。軍事同盟というより、政治的な後ろ盾の取り決めでした。
口約束だったから、裏書が要りました
なぜ桂はわざわざ六か条を書き出して龍馬に確認を求めたのか。会談で交わされたのが口頭の合意で、正式な盟約書が作られなかった(あるいは残らなかった)からです。六か条は桂が後日、記憶をたどって書き留めたものでした。だからこそ、その場にいた第三者の確認が必要になります。
龍馬の返答は「毛も相違無之候」、髪の毛ほどの違いもない、というものです。「小、西、両氏」は小松帯刀と西郷吉之助。同席者がほかに誰だったかを確定できる史料は見つかりませんでした。
この文書を「薩長同盟の存在を示す唯一の文書」と説明するものもありますが、宮内庁も高知県立坂本龍馬記念館も「唯一」とは書いていません。盟約の内容を確認できる同時代の史料としては、これが最も直接的なものだと言えます。
同盟が結ばれた場所が、近年になって分かりました
同盟の日付は慶応二年一月二十一日とするのが通説で、十八日説・二十二日説もあります。場所については長く「二本松の薩摩藩邸」とされてきましたが、平成二十八年に鹿児島と京都で新しい史料が見つかり、京都市上京区森之木町の近衛家別邸「御花畑屋敷」、つまり小松帯刀の寓居であったことが判明しました。平成二十九年二月に石碑が建てられています。
龍馬がこの裏書を書いた場所は京都の薩摩藩邸とされます。正月二十三日の寺田屋で襲われて手を負傷し、薩摩藩邸にかくまわれて療養していた最中のことでした。傷ついた手で、朱の筆を執ったわけです。
寺田屋の傷が癒えぬまま、朱で書き入れた保証
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では028番「慶応二年二月五日 木戸孝允あて」です。手紙そのものに干支の「丙寅」が書かれているため、年は推し量るまでもなく慶応二年と分かり、宮地の題もそれに従っています。表の木戸の書状は正月二十三日付で、龍馬はそれを受けて二月五日、京都の薩摩藩邸で裏面に朱で書き入れました。原本は宮内庁書陵部の所蔵で、高知県立坂本龍馬記念館は長くレプリカを展示してきましたが、2021年に開館三十周年を記念して原本を初めて公開しました。
正月二十三日は、龍馬が伏見の寺田屋で幕府の捕り方に襲われた夜でもあります。裏書の翌日に書いた木戸あての手紙(宮地の029番)で龍馬は、「去月廿三日夜」に襲われてピストルで応戦し、手を斬られながら薩摩の伏見屋敷へ逃れたこと、いまは傷の養生中で参上できないことを詫びています。六か条の保証は、その傷を抱えたまま書かれた一筆です。
薩長同盟の六か条
結ばれた約束 慶応二年(1866)正月、京都で結ばれた薩長同盟は、のちに桂小五郎が書きとめた六か条でその中身が知られます。長州と幕府の戦いが始まれば薩摩は兵を京都・大坂に送って応援すること、長州が勝っても負けても薩摩は長州のために朝廷に働きかけること、長州の汚名をそそぐために尽力すること、などです。両藩が力を合わせて「皇国」のために尽くすことも約束されました。
龍馬の役割 龍馬はこの話し合いに立ち会い、のちにこの六か条の書面の裏に、内容に相違がないことを保証する一文を書きました。敵どうしだった二つの藩の約束を、第三者として見届けたのが龍馬だったのです。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



