村田巳三郎宛
| 原文 |
| 唯今肥後邸ニ横井を尋候所、夜前申合候通、伏水ニ相待と申て、今日八ツ時頃、出足ニて候よし。下拙ニ於ても一言、神戸へまて申遣し度儀も有之、又先刻御談申せし儀も有て、薩邸ニも早々参多し。故ニ今夜伏水ニ下り明朝上京と存付候間、吉井への状一封今夜中、何卒御遣しの程奉希。頓首々八日坂本龍馬村田巳三郎様直陰足下 |
| 現代文 |
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ただいま肥後藩邸(熊本藩)に横井(小楠とされます)を訪ねたところ、昨夜申し合わせたとおり伏見で待つと言って、今日の八つ時(午後二時ごろ)に出発したとのことでした。私のほうでも、神戸へ一言言い送りたいことがあり、また先ほどご相談したこともありますので、薩摩藩邸へも早々に参りたいと思います。そこで、今夜伏見へ下り、明朝京へ上ろうと考えていますので、吉井(幸輔)への手紙一通を、今夜中にどうかお届けくださいますようお願いします。頓首。 八日(花押)坂本龍馬 村田巳三郎様(村田氏寿:越前藩士) 直陰(龍馬の実名)足下 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「今、肥後(熊本)藩邸に横井小楠先生を訪ねたところだ。昨夜の約束通り、先生は伏見で待つと言って出かけました。私も神戸へ言い送りたいことがあり、先ほど相談した件もあって、薩摩藩邸へも早々に行きます。今夜は伏見に下り、明朝また上京するので、吉井幸輔への手紙を今夜中に書いておいてほしい」という、めまぐるしい周旋の一日を伝える手紙です。八日付、本名「直陰」の署名。
宛先「村田巳三郎」とは

村田巳三郎は、本名を村田氏寿(むらた うじひさ)といい、越前藩士で藩主・松平春嶽の側近をつとめた人物です。龍馬は越前藩とも深く通じていました。
この手紙が書かれたころ
熊本の大思想家・横井小楠、薩摩の吉井幸輔、越前藩と、諸藩の要人の間を一日で駆け回っていました。神戸(海軍操練所)にも関わる、周旋家としての多忙な日々です。横井小楠は開国と公議政体を説いた当代随一の思想家で、諸藩の指導者に大きな影響を与えました。龍馬もその教えに学んでいます。土佐脱藩の龍馬が、越前・熊本・薩摩を結ぶ結節点となっていました。藩を越えた知と人の交流を、その身で担っていたのです。
「八日」だけの日付と、宮地が付けた「か」
手紙に書かれた日付は「八日」だけで、年月はありません。宮地佐一郎は『龍馬の手紙』でこれを十一番「文久三年七月八日か 村田巳三郎あて」とし、題の末尾に「か」を付けて、年代の比定に確信が持てないことを示しています。本文には肥後藩邸、伏見、神戸、薩摩藩邸と行き先が並び、神戸へ言い送りたい用があると書かれています。神戸にはこの文久三年に幕府の海軍操練所が置かれており、勝海舟のもとで海軍づくりに関わっていた龍馬の動きとよく合います。
一方で福井県文書館の展示解説によると、この年の越前藩では横井小楠が主導した挙藩上洛の計画が進み、村田巳三郎は六月四日に京の情勢を探るため派遣され、七月六日には福井へ戻って復命しています。小楠も八月十一日まで福井にとどまっていました。文中の「横井」を小楠とみるなら、村田と小楠がともに京にいた時期と七月八日という日付はかみ合わない点があり、年月にはなお検討の余地があります。
同じころの日本と土佐—文久三年の夏
世の中では この手紙が書かれたとみられる文久三年(1863)七月は、攘夷が実際の戦いになった夏でした。五月から長州藩が下関海峡で外国船を砲撃し、七月二日には鹿児島湾で薩摩藩とイギリス艦隊が砲火を交えています(薩英戦争)。京都では長州と結んだ攘夷派の公家が勢いを強めていましたが、一か月余りのちの八月十八日の政変で、長州勢は一夜にして京都から追われることになります。
土佐では 前藩主・山内容堂が江戸から戻り、土佐勤王党への締めつけを始めていました。六月八日には、党の中心にいた平井収二郎らが切腹させられています(平井かほ宛の手紙も参照)。九月には武市半平太が投獄されました。龍馬が勝海舟のもとで海軍の仕事に打ち込んでいたこの時期、故郷の仲間たちは次々と追い詰められていました。
越前藩と龍馬、村田巳三郎
五千両を借りに福井へ
文久三年の五月、龍馬は勝海舟の使いとして越前の福井を訪れました。神戸に開く海軍の塾の資金として、前藩主・松平春嶽から五千両を借りるためです。このとき龍馬は、春嶽の政治顧問だった横井小楠や、財政に明るい三岡八郎(のちの由利公正)とも知り合いました。越前藩とのこの縁は、四年後の慶応三年、龍馬が新しい政府の構想を練る際にも生きてきます。
春嶽の側近、村田巳三郎
宛先の村田巳三郎(氏寿)は越前藩士で、松平春嶽の側近として京都と福井の間を行き来し、政局の情報を集めていました。横井小楠の考えに近い人物で、越前藩が朝廷と幕府の間を取り持とうとした時期に、その実務を担っています。脱藩浪士の龍馬が越前藩の重臣と直接やりとりできたのは、勝海舟の門下という立場があったからでした。
この年の坂本家
同じ文久三年、高知の坂本家では、姪の春猪が土佐藩士・鎌田家から婿の清次郎を迎えています。六月二十九日には、龍馬が姉の乙女に「日本を今一度せんたくいたし申候」と書き送りました。故郷の家族に向けて、自分の志を最もはっきり語った手紙として知られています。
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