丸岡城とは—福井地震で全壊し、ただ一つ組み直された現存天守

青空の下に立つ丸岡城の現存天守。石瓦の屋根と野面積みの天守台

丸岡城は、現存する十二の天守のうち、いちど完全に崩れ落ちてから組み直された唯一の天守です。昭和二十三年の福井地震で石垣もろとも倒れ、昭和三十年に倒壊した材を使って復旧されました。屋根に石の瓦を葺いた天守としても、ほかに例がありません。そして幕末の丸岡藩からは、五万石の小藩でありながら老中が一人出ています。城の造りと、藩の幕末を分けて書きます。

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石の瓦を葺いた天守

丸岡城でまず目につくのは屋根です。瓦が土ではなく石でできています。坂井市は「日本で唯一、石瓦葺きの屋根」と説明していて、使われている枚数はおよそ六千枚以上。福井県内でしか採れない笏谷石が一部に使われています。一枚ずつ彫って作られた瓦が、屋根の上に並んでいるわけです。

天守の形は独立式望楼型の二重三階。高さは坂井市が天守およそ十二メートルに天守台およそ六メートルを足して約十八メートルとし、福井県の文化財データベースは十二・五メートルとしています。石垣は野面積みで約六メートル。一階と二階で柱の位置が揃っていないなど、初期の天守の手法を残しているとされます。

丸岡城の天守台の野面積みの石垣と、天守へ登る石段
天守台は野面積み。自然石をほとんど加工せずに積んでいます(写真AC)

「現存最古」ではなくなりました

丸岡城は長いあいだ「現存最古の天守」と呼ばれてきました。ところがこの肩書きは、調査によって書き換えられています。

坂井市は平成二十七年度から令和三年度にかけて、年輪年代調査、放射性炭素年代調査、酸素同位体比年輪年代調査を行いました。その結果と歴史的な背景から、「現在の天守は寛永年間(一六二四〜一六四三)、本多成重の代に整備された」というのが市の見解です。築城そのものは天正四年(一五七六年)の柴田勝豊ですが、いま建っている建物はそれより五十年ほど新しいことになります。

ややこしいのは、国の文化遺産オンラインや福井県の文化財データベースが、指定当時の記載のまま「桃山/天正四年」「現存最古の天守」としている点です。国のデータベースと市の最新調査が食い違ったままなので、どちらか一方だけを読むと話が合わなくなります。

調査ではほかにも分かったことがあります。石瓦になる前はこけら葺きだったこと、板戸の扉板が東北産のヒバと一致したこと、不明門の部材の伐採年代が天守とほぼ同じで、同時期の建造だと判明したことです。

全壊して、よみがえった天守

昭和二十三年(一九四八年)六月の福井地震で、丸岡城の天守は石垣もろとも倒壊しました。坂井市は「現存十二天守の中で、完全に倒壊した状況から修復された天守は唯一丸岡城天守のみ」と書いています。

復旧工事は昭和二十六年に着手し、昭和三十年に竣工しました。天守の材料や石垣など主要な部材の多くを再び使っています。福井県の文化財データベースはこれを「解体復元修理」と表現し、坂井市は「復興修理工事」と呼んでいます。呼び方は資料によって違いますが、倒れた材を拾い集めて組み直したという点は共通です。

国宝保存法による(旧)国宝の指定は昭和九年一月三十日。昭和二十五年の文化財保護法の施行にともなって重要文化財になりました。つまり国宝だった建物が、いったん崩れ落ちてから、いまの姿に戻されたことになります。坂井市はいま国宝化を目指す事業を進めています。

木々の梢ごしに見上げた丸岡城の天守
丸岡城は平山城で、天守は独立した丘の上に建っています(写真AC)

城主は何度も入れ替わりました

柴田勝豊のあと、丸岡には安井家清、青山宗勝・忠元父子、今村盛次と城主が替わります。慶長十八年(一六一三年)に本多成重が四万石で入り、寛永元年(一六二四年)に四万六千三百石へ加増されて福井藩から独立した大名になりました。それまでは福井藩の附家老という立場でした。

本多家は四代で終わります。元禄八年(一六九五年)、幕府の評定所は四代 重益について「常に政事よろしからず……非道なる挙動なり」として領地を没収しました。家老の不正と、それを訴え出た太田又八の獄死をふくむ一件で、丸岡騒動と呼ばれます。

同じ年に越後糸魚川から入ったのが有馬清純でした。本多の旧領四万三千三百石に坂井郡八か村六千六百石余を加えて五万石。清純はキリシタン大名として知られる有馬晴信の曾孫にあたります。正徳元年(一七一一年)には外様から譜代格へ引き上げられ、有馬家八代で幕末を迎えました。

五万石から老中が出ました

最後の藩主 有馬道純は天保八年(一八三七年)生まれ。安政二年に家督を継ぎ、万延元年に奏者番、文久二年六月三十日に寺社奉行、文久三年一月二十二日に若年寄と進み、文久三年(一八六三年)七月五日に老中となりました。老中を免じられたのは元治元年(一八六四年)四月十二日です。五万石の藩から老中が出た、その一年足らずの期間にあたります。

戊辰戦争での丸岡藩は、戦地へは出ていません。『福井県史』は、丸岡藩は当初 京都での御門警衛にあたり、八月から京都鞍馬口の警備につき、十一月には隊員百人が敦賀の本妙寺に陣を取って小浜・鯖江・勝山の諸藩とともに敦賀湾を警備し、翌年二月にいっさいの任務を解除された、と記しています。北陸の藩ですが、北越戦争には加わっていません。

道純は明治二年六月十九日に丸岡藩知事、明治四年の廃藩置県で免官。明治十七年七月七日の華族令の翌八日に、旧小藩知事として子爵となりました。最後の藩主本人が授爵した例です。明治三十六年に六十六歳で亡くなっています。藩校は平章館で、文化元年(一八〇四年)の開設でした。

「お仙泣かすな」の手紙

丸岡にはもう一つ、よく知られた話があります。日本一短い手紙と呼ばれる「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」です。徳川家康の家臣 本多作左衛門重次が陣中から妻へ送った手紙で、この「お仙」が、のちに丸岡城主となる本多成重のことです。幼名を仙千代といいました。

城の前に「一筆啓上 日本一短い手紙の館」があるのは、この縁によります。一筆啓上賞は平成五年(一九九三年)に始まった手紙のコンクールで、坂井市と公益財団法人丸岡文化財団が主催し、一文字から四十文字までで書きます。句読点や括弧も字数に数えます。天守と手紙が同じ場所にある城下町です。

丸岡城から見下ろした城下の町並みと福井平野の山並み
丸岡城から見た城下。奥に福井平野と山地が広がります(写真AC)

訪ねるなら

城跡は霞ヶ城公園として整備されています。ソメイヨシノおよそ四百本があり、日本さくら名所百選に選ばれています。なお丸岡城で国の指定を受けているのは天守一棟の重要文化財だけで、城跡そのものは国史跡ではありません。本丸を囲んでいた五角形の内堀は、明治中期から昭和初めにかけて埋められて残っていません。石垣は現存します。

入城料は大人四百五十円、小中学生百五十円。三十名以上の団体は二割引、障がい者手帳の提示で五割引です。開城は午前八時三十分から午後五時まで、最終入場は午後四時三十分。駐車場は無料です。併設して一筆啓上 日本一短い手紙の館と歴史民俗資料館があります。工事などで入城が制限されることがあるので、行く前に坂井市の案内を確かめてください。

行き方は、福井駅からハピラインふくいでおよそ十二分の丸岡駅へ、そこから京福バスでおよそ十五分。芦原温泉駅からは京福バスでおよそ二十分です。車なら北陸自動車道の丸岡インターチェンジから約十分。

藩そのものについては丸岡藩のページにまとめてあります。越前のほかの藩は福井藩、大野藩、越前勝山藩、鯖江藩をご覧ください。

※このページの写真は写真ACの素材を使用しています。

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