徳島城とは—青石の石垣と、空襲で焼けて戻ってきた鷲の門

徳島城跡に建つ鷲の門と築地塀

徳島城には天守も櫓も残っていません。残っているのは青石の石垣と、空襲で焼けたあとに再建された鷲の門です。その鷲の門は「鷲を飼うため」と幕府に届け出て建てられたと伝わる門で、昭和二十年の徳島大空襲までは城で唯一残っていた建物でした。そして幕末の徳島藩は、将軍の子を藩主に迎え、維新のあとに庚午事変という事件を起こしています。城の造りと、藩の幕末を分けて書きます。

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秀吉が選んだ山

天正十三年(一五八五年)、四国攻めの功で阿波一国を与えられた蜂須賀家政が築いた城です。石高は徳島市が十七万五千六百石余、文化庁が十七万石余、辞典類が十七万六千石、十八万六千石と資料でまちまちなので、ここでは十七万石余としておきます。

場所を選んだのは秀吉自身でした。天正十三年八月四日付の秀吉書状の写しに「家政の居城は猪山がよかろう」とあります。猪山は渭山とも書き、いまの城山です。標高はおよそ六十一メートル。この山上に本丸を置き、山麓に御殿を構える平山城で、助任川と寺島川を堀として取り込んでいます。城域は東西およそ六百四十メートル、南北およそ五百五十メートル。このとき「渭津」という地名が「徳島」に改められました。

工事には秀吉の命で伊予の小早川隆景、土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力し、翌天正十四年(一五八六年)に完成しています。着工から一年半ほどでした。家政は入封した当初、市の西部にある一宮城に入り、すぐにこの地へ移っています。

青石の石垣

徳島城の石垣は阿波の青石でできています。眉山などで採れる緑色片岩で、文化庁は「独特の景観を形成」と説明しています。運送が難しいため、内陸で採れる石材は使われていません。青みを帯びた平たい石が積まれた様子は、ほかの城の石垣とは色から違います。

石垣には刻印が十個確認されていて、文字では「大」が最も多く、図形の「▽」が二か所。徳島県立博物館によると、刻印は大手門・太鼓櫓・数寄屋橋門の三か所に集中しています。

鷲を飼うための門

いま徳島中央公園の入口に建っているのが鷲の門です。徳島市は「徳島城の巽(南東)の方向に位置し、徳島城の正門で様式は薬医門」と説明しています。

名前の由来には話が伝わっています。幕府に「鷲を飼うための通用門」と届け出て許しを得たため、というものです。地元紙は、実際に鷲が飼育されたかどうかは分からない、としています。

この門は戦前、徳島城で唯一残っていた建造物でした。それが昭和二十年(一九四五年)七月四日の徳島大空襲で焼け落ちます。再建されたのは平成元年(一九八九年)、徳島市制百周年の記念事業としてでした。復元と寄贈にあたったのは吉井ツルヱさんという方です。徳島市の出身で東京で和裁の専門学校を経営していた人で、費用は三億円。幅十・七メートル、高さ六・七メートルの門が、四十四年ぶりに戻ってきました。

表御殿の庭

山麓の表御殿跡には庭が残っています。「旧徳島城表御殿庭園」として国の名勝に指定されていて、指定は昭和十六年十二月十三日です。

徳島市は「武将で茶人の上田宗箇作庭の枯山水庭(書院の庭)と築山泉水庭(居間の庭)」と説明しています。見どころの一つが長さ十・五メートルの緑泥片岩の石橋で、未完成品とされます。ただし文化庁の指定解説文は「作庭ノ年代ハ明確ナラザルモ桃山時代ナルガ如シ」とするだけで、作庭者の名を挙げていません。上田宗箇の名は市や観光庁の側の記述です。

将軍の子だった藩主

幕末の藩主 蜂須賀斉裕は、十一代将軍 徳川家斉の子です。文政四年(一八二一年)生まれで、文政十年に十二代藩主 斉昌の養子となり、天保十四年(一八四三年)に十三代藩主となりました。

軍制をイギリス式に改め、淡路島の岩屋と由良に砲台を築いています。幕府では陸軍総裁に任じられましたが、この点は資料が割れていて、文久二年十二月八日に陸軍総裁職を設けて斉裕を任じたとするものと、同年十二月十八日に海軍総裁と陸軍総裁を兼務させ短期間で廃したとするものがあります。

そして慶応四年(一八六八年)一月六日、鳥羽伏見の戦いのさなかに四十八歳で急死しました。藩は大混乱に陥ります。跡を継いだのが蜂須賀茂韶でした。

庚午事変

阿波二十五万七千石のうち淡路七万石余は、大坂の陣の功で加増されたものです(冬の陣とする資料と夏の陣とする資料があります)。この淡路は筆頭家老の稲田氏が洲本で預かっていました。その仕組みが、維新のあとに事件を生みます。

洲本市の説明によると、明治三年五月十三日の早朝、稲田九郎兵衛邦植の上京に際して蜂須賀家臣ら約九百人が稲田家の施設を襲撃し、無抵抗の者を殺傷して火を放ちました。自決二人、即死十五人などの被害が出ています。

原因は身分と経済の問題でした。維新の禄制改革で、陪臣である稲田家の家臣を士族とするか卒族とするかが争点になり、卒族に分類された稲田家臣の側の生活不安と、独立を図る稲田家への蜂須賀側の不満が重なったのです。処分は主謀者十人が斬首(のちに切腹)、八丈島への終身流刑二十七人ほか多数。稲田邦植以下の家臣は全員が北海道静内郡と色丹島への移住開拓を命じられ、翌年に日高の静内へ移りました。淡路を預かった家が、北の果てへ移された事件です。

最後の藩主は、オックスフォードへ行きました

蜂須賀茂韶は弘化三年(一八四六年)生まれ。慶応四年一月六日、父の急死で家督を継ぎました。戊辰戦争では新政府側につき奥羽へ出兵しましたが、藩内の混乱のため、イギリス式の新しい装備を持ちながら少数の藩兵しか送れず、諸藩から冷ややかに見られたと伝わります。

その後の経歴が変わっています。明治五年(一八七二年)に渡英し、明治七年にオックスフォード大学へ入学、明治九年に政治学と経済学を修めて卒業しました。明治十二年に帰国して外務省御用掛、明治十五年にフランス駐在の特命全権公使、明治十九年に元老院議官。そして明治二十三年から東京府知事(東京市長を兼ねる)、明治二十四年から貴族院議長、明治二十九年には第二次松方正義内閣の文部大臣を務めています。爵位は侯爵で、明治十七年(一八八四年)七月の授爵でした。大正七年(一九一八年)に亡くなっています。

藍と塩の藩でした

徳島藩の財政を支えたのは阿波藍です。享保十八年(一七三三年)に藩が藍方御用場を設けて専売とし、文化元年(一八〇四年)のピーク時には二十七万六千俵を産出しました。あわせて撫養の塩田の塩も専売品で、砂糖や煙草も主な産業でした。吉野川下流の新田開発と塩田が、藩の財源になっていたわけです。

城下町は、新町川や助任川が乱流する中洲の六つの島(徳島・福島・寺島・常三島・住吉島・出来島)に新町・富田・助任から前川・佐古を加えた範囲で、のちに「御山下」と呼ばれました。徳島市の説明によると、城下は侍屋敷・足軽町・町人地・寺町で構成され、徳島にはさらに水軍町があるのが特徴です。寺島橋・福島橋・助任橋の前後には、橋を守るように家老や中老の屋敷が置かれていました。

元治元年七月の禁門の変では、徳島藩は公武合体派の一藩としてこの事件に関わり、蛤御門から西へ一キロほどの石薬師付近の警衛にあたっています。徳島県立博物館に、藩士 飯沼家に伝わった関係文書が所蔵されています。

訪ねるなら

城跡は徳島中央公園として開かれています。国史跡「徳島城跡」の指定は平成十八年一月二十六日です。表御殿跡には平成四年(一九九二年)に徳島市立徳島城博物館が開館しました。書院造風の建物で、常設展は藩政の変遷、大名のくらしと文化、城の構え、城下町のくらし、阿波水軍の活躍の五つのテーマ。藩の御召鯨船「千山丸」が保存されています。

博物館の入館料は一般三百円で、午前九時三十分から午後五時まで(入場は午後四時三十分まで)、月曜休館。入館者は旧徳島城表御殿庭園もあわせて観覧できます。庭園だけなら大人五十円、小人三十円で、午前九時から午後五時までです。

城山は全面が林で、徳島市の木であるホルトノキが多く、鳥居龍蔵が調査した城山貝塚もあります。ハマグリやカキの殻、縄文土器が出ています。

藩そのものについては阿波徳島藩のページに、庚午事変の相手方については淡路洲本藩のページにまとめてあります。

※このページの写真は写真ACの素材を使用しています。

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